mamimami77772さまの『主に【 対馬 】を応援するブログです 』(exciteブログ)より転載させて頂きました。
(以下、転載記事。 ↓のタイトルをクリックして元記事に行けます)
【ベトナム】戦争の傷跡と日本のODAに感謝を忘れない国民
2014年5月15日
ベトナムでは、中国による南シナ海での石油掘削活動に対する抗議デモが発生し、南部の工業団地では、外国企業の工場が放火され、20人以上の死者が出たと報道されています。
2012年11月にベトナムの友人が反中デモの写真を送ってくれたので、その時に書いたブログ記事を再掲しました。当時のデモの写真には笑顔の参加者も見られ、この頃はまだ余裕が感じられます。
以下は2012年11月に載せた内容の再掲です。
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<2012年11月22日>
ベトナムでは、中国による南シナ海での石油掘削活動に対する抗議デモが発生し、南部の工業団地では、外国企業の工場が放火され、20人以上の死者が出たと報道されています。
2012年11月にベトナムの友人が反中デモの写真を送ってくれたので、その時に書いたブログ記事を再掲しました。当時のデモの写真には笑顔の参加者も見られ、この頃はまだ余裕が感じられます。
以下は2012年11月に載せた内容の再掲です。
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<2012年11月22日>
【ベトナム】戦争の傷跡と日本のODAに感謝を忘れない国民
ベトナムのホーチミン市内からバイクで1時間ほどの「BINH TAN」という田舎に住んでいる友人とメールのやり取りをしています。
日本と同じく、中国との間に領有権問題(領土侵略問題)を抱えているベトナムですが、中国が巨大な軍事力をもった今では、かつて中越戦争の時に中国を追い払ったようには簡単に行きません。
写真は(2012年)友人テュイ(THUYさん)が送ってくれたものです。中国軍を警戒監視しているベトナム海軍兵士。 2枚目は南沙諸島の侵略に抗議するベトナム市民のデモの記事です。
ベトナム戦争は第二次インドシナ戦争とも言われ1960年12月 から1975年4月30日まで、なんと15年間もの長い戦争となりました。 その4年後、1979年に北ベトナムに侵攻した中国軍は、ベトナム戦争で実戦経験を積み、装備にも優れたベトナム軍相手に多大な損害を出し、わずか1か月足らずで撤退に追い込まれました。
この中越戦争では両国とも勝利を宣言していますが、実際はベトナムが中国を追い出して終決となっています。
フランス、米国、中国と、大きな国相手に3回も戦争を経験したベトナムは長い戦争で国が疲弊して、国民の生活が向上してきたのはごく最近だと感じます。今でも田舎に行けば、バナナの葉やヤシの皮を使った家が見られますし、はだしで生活している人たちも珍しくありません。
その一方で高速道路が日本のODAによって次々と計画され、信号が無いために起きるバイクの渋滞も徐々に改善されているようです。1年前と比べると道路がとても綺麗になっていて、驚きました。
ベトナム戦争後、日本のODAによって「エビ」の養殖技術を指導されました。
枯れ葉剤による土地への影響のため、最初の2年間は失敗に終わりましたが3年目にようやく「エビ」の養殖が成功した、これは日本の技術者の根気強い指導のおかげだと彼女は言っていました。今ではベトナムの輸出産業の大きなパーセンテージを占めるものとなっています。
ベトナム人から聞いて初めて「エビ」の養殖技術、高速道路の建設、その他多くの日本からの技術指導や資金援助の話と共に、日本への感謝の気持ちを聞かされて、日本が世界のために役立っていることをうれしく思いました。
★ Wikiから 国道1A号線 (ベトナム)
またベトナムと言えば私たち日本人が思い浮かべるのはベトちゃん、ドクちゃん です。
★ 友人の紹介でお会いしたドクさんです。
★ 事務所の女性とドクさん
ベトさんとドクさんはホーチミンの病院で分離手術を受けましたが、この手術でも日本赤十字社が支援しています。 日本から医師団が派遣され高度な医療技術が提供されました。
私がドクさんとお会いした時も、「来週から大阪に行くんですよ」と、今でも日本の支援活動は続いているそうです。看護婦をされていた女性と結婚して男女の双子のお子さんも生まれ、幸せに暮らしていますが、「ドクさんの様な例は大変稀だ、彼は幸せだ」と友人は言っています。
現在でもドクさんの様なY字型結合双生児は年間、少なくとも30組は生まれていると言われています。
長い間の日本の援助もあって、ベトナムはとても親日国家です。そして何よりもその国民性は、とても日本人に近いものがあります。
中国との間に同じ領有権問題を抱えている日本、ベトナム、そして世界一日本を好きな国フィリピンが互いに団結し、「三本の矢」のように強く結束してくれる日を待っています。
周りを見回せば、多くのアジア諸国は日本を応援し、「一緒にやりませんか?」と声をかけてくれています。次期政権に期待しています。
(この時にはまだ野田内閣でした。)
ベトナムのホーチミン市内からバイクで1時間ほどの「BINH TAN」という田舎に住んでいる友人とメールのやり取りをしています。
日本と同じく、中国との間に領有権問題(領土侵略問題)を抱えているベトナムですが、中国が巨大な軍事力をもった今では、かつて中越戦争の時に中国を追い払ったようには簡単に行きません。
写真は(2012年)友人テュイ(THUYさん)が送ってくれたものです。中国軍を警戒監視しているベトナム海軍兵士。 2枚目は南沙諸島の侵略に抗議するベトナム市民のデモの記事です。
ベトナム戦争は第二次インドシナ戦争とも言われ1960年12月 から1975年4月30日まで、なんと15年間もの長い戦争となりました。 その4年後、1979年に北ベトナムに侵攻した中国軍は、ベトナム戦争で実戦経験を積み、装備にも優れたベトナム軍相手に多大な損害を出し、わずか1か月足らずで撤退に追い込まれました。
この中越戦争では両国とも勝利を宣言していますが、実際はベトナムが中国を追い出して終決となっています。
フランス、米国、中国と、大きな国相手に3回も戦争を経験したベトナムは長い戦争で国が疲弊して、国民の生活が向上してきたのはごく最近だと感じます。今でも田舎に行けば、バナナの葉やヤシの皮を使った家が見られますし、はだしで生活している人たちも珍しくありません。
その一方で高速道路が日本のODAによって次々と計画され、信号が無いために起きるバイクの渋滞も徐々に改善されているようです。1年前と比べると道路がとても綺麗になっていて、驚きました。
ベトナム戦争後、日本のODAによって「エビ」の養殖技術を指導されました。
枯れ葉剤による土地への影響のため、最初の2年間は失敗に終わりましたが3年目にようやく「エビ」の養殖が成功した、これは日本の技術者の根気強い指導のおかげだと彼女は言っていました。今ではベトナムの輸出産業の大きなパーセンテージを占めるものとなっています。
ベトナム人から聞いて初めて「エビ」の養殖技術、高速道路の建設、その他多くの日本からの技術指導や資金援助の話と共に、日本への感謝の気持ちを聞かされて、日本が世界のために役立っていることをうれしく思いました。
★ Wikiから 国道1A号線 (ベトナム)
またベトナムと言えば私たち日本人が思い浮かべるのはベトちゃん、ドクちゃん です。
★ 友人の紹介でお会いしたドクさんです。
★ 事務所の女性とドクさん
ベトさんとドクさんはホーチミンの病院で分離手術を受けましたが、この手術でも日本赤十字社が支援しています。 日本から医師団が派遣され高度な医療技術が提供されました。
私がドクさんとお会いした時も、「来週から大阪に行くんですよ」と、今でも日本の支援活動は続いているそうです。看護婦をされていた女性と結婚して男女の双子のお子さんも生まれ、幸せに暮らしていますが、「ドクさんの様な例は大変稀だ、彼は幸せだ」と友人は言っています。
現在でもドクさんの様なY字型結合双生児は年間、少なくとも30組は生まれていると言われています。
長い間の日本の援助もあって、ベトナムはとても親日国家です。そして何よりもその国民性は、とても日本人に近いものがあります。
中国との間に同じ領有権問題を抱えている日本、ベトナム、そして世界一日本を好きな国フィリピンが互いに団結し、「三本の矢」のように強く結束してくれる日を待っています。
周りを見回せば、多くのアジア諸国は日本を応援し、「一緒にやりませんか?」と声をかけてくれています。次期政権に期待しています。
(この時にはまだ野田内閣でした。)