(以下、転載記事)
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転載「自由の国」に自由はあるか?」
「自由の国」に自由はあるか?
日米同盟の本質的重要さを書いてきた。最大の敵であるからこそ、組まねばならないのである。その組まねばならぬ相手のことを、我々は未だに理解していない。理解している者は脇に置かれ、理解していない者ばかりが我が世の春を謳歌している。それは、まるで誰かの意図を体現しているかのようである。
「言いたいことを言わなければ、国際社会では通用しない」などという大嘘がまかり通り、遂には完璧な市民権を得て、小学校の教師までもが、「自分の意見を言わないと黙っていては相手には分かりません」などと煽る時代になってしまった。日本人最強の武器である「沈黙」を、小学校時代から否定されては、戦力ガタ落ちである。重要なのは「雄弁」ではない、「拒否」権である、「黙秘」権である。最終的な拒否の権利を絶対に他人に譲らないことである。
さて、彼等が必ず例に引くアメリカ人の本音はどうか。アメリカ人は、本当に自由で楽天家で、誰の意見にも胸襟を開いて、それを聞き、それを採り入れ、尊重しているか。まさに「冗談は止めてくれ!」というレベルであろう。
確かに彼等は沈黙する日本人に対して、「まるで哲学者か禅マスターのようだ」と言ってきた。しかし、ただ黙っているだけで、哲学者と思われ、禅の高僧だと誤認して貰えるなら、それで充分ではないか。「国際社会では」哲学者扱いされると何か困ることでもあるのか。たとえエイリアン扱いされるとしても、それがヨーダなら喜んで受けようというものである。
そもそも彼等の言う「自由な議論」とは、相手にしゃべるだけしゃべらせて、「機会の平等」を尊重した、それを保証した、というアリバイを作った後に、結論は自分達のものへと誘導するだけのものである。それでも上手くいかなければ「ルール」を変える。それが彼等の常套手段である。ディベートなる「討論の技術」を誇らしげに強調していることからも、この点は明らかであろう。あれは我々が散々見てきた、ヤクザ弁護士のハッタリと何ら変わるところのないものである。だからこそ「技術」なのである。
★ ★ ★ ★ ★
アメリカ人が陽気な楽天家である、ということをそのまま信じている方が、よほど陽気な楽天家である。彼等は、自分達の痛い所を突かれた場合、しっかりと「それを根に持ち」、充分過ぎるレベルで「恨み」を感じている。
多くのアメリカ人男性が自家用機の操縦を趣味にしている。それは、陽気なカウボーイ達が、馬を飛行機に乗り換えたといった暢気な話ではない。その理由は何か。操縦桿を引いて離陸した瞬間に、妻や家族や、その他諸々の「地上の建前」から開放されるからだ。快哉を叫ぶ唯一の機会が「大空の彼方だけ」だから、という話を聞いたことがある。自分の女房にすら言いたいことも言えないアメリカ人が、現実逃避だけが楽しみのアメリカ人が、高が日本人に言いたいことを言わせるはずがないではないか。
留学生のその後を調べて見れば分かる。アメリカの主張に沿った議論を行う者は重用され、そうでないものは、「ガス抜きの存在」として巧みに使われる。本人達にこの自覚がある者はいい。多くの学生は、この違いが分からない。
帰国後、やたらにアメリカの自由さを論ずる者は、ほぼ間違いなく前者であり、彼等は「留学成功組」として、国内でも出世街道を走り出す。後者の一部は、帰国後にようやくその真の意味を悟り、隔靴掻痒たる自らの留学体験を語ろうとしなくなる。国内に「アメリカ自由の国」説が蔓延している以上、それを肯定する者は、よく学んできた者であり、それを否定する者は、日本文化の殻を破ることができず、異文化交流を体得できなかった怠け者なのである。故に前者は栄進し、後者は落後するわけである。
大学ですらコネで決まるアメリカ社会の、何処に自由があるというのか。「日本の制度は硬直している」などというアホな話ばかりが横行しているが、日本が硬直しているというのなら、「アメリカは既に死後硬直」の状態であろう。
従って、当然のこととして、アメリカ人と話す時には、最大限の警戒心をもって当たらねばならない。「自分の思うまま」などと、言葉も選ばずにぶつければ、「同じ人間」として、当然抱く反発を招くだけである。従って、あの「風俗発言」は、米軍の中に強い痼りを残したであろうことは、疑いのないところである。その反動は、これから本格化する。村山・河野と同様に、本人が居なくなった後まで、長く尾を引くだろう。また一つ、アホが踊って、日本国を貶める醜い伝説を作ってくれたわけである。
「言いたいことを言わなければ、国際社会では通用しない」などという大嘘がまかり通り、遂には完璧な市民権を得て、小学校の教師までもが、「自分の意見を言わないと黙っていては相手には分かりません」などと煽る時代になってしまった。日本人最強の武器である「沈黙」を、小学校時代から否定されては、戦力ガタ落ちである。重要なのは「雄弁」ではない、「拒否」権である、「黙秘」権である。最終的な拒否の権利を絶対に他人に譲らないことである。
さて、彼等が必ず例に引くアメリカ人の本音はどうか。アメリカ人は、本当に自由で楽天家で、誰の意見にも胸襟を開いて、それを聞き、それを採り入れ、尊重しているか。まさに「冗談は止めてくれ!」というレベルであろう。
確かに彼等は沈黙する日本人に対して、「まるで哲学者か禅マスターのようだ」と言ってきた。しかし、ただ黙っているだけで、哲学者と思われ、禅の高僧だと誤認して貰えるなら、それで充分ではないか。「国際社会では」哲学者扱いされると何か困ることでもあるのか。たとえエイリアン扱いされるとしても、それがヨーダなら喜んで受けようというものである。
そもそも彼等の言う「自由な議論」とは、相手にしゃべるだけしゃべらせて、「機会の平等」を尊重した、それを保証した、というアリバイを作った後に、結論は自分達のものへと誘導するだけのものである。それでも上手くいかなければ「ルール」を変える。それが彼等の常套手段である。ディベートなる「討論の技術」を誇らしげに強調していることからも、この点は明らかであろう。あれは我々が散々見てきた、ヤクザ弁護士のハッタリと何ら変わるところのないものである。だからこそ「技術」なのである。
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アメリカ人が陽気な楽天家である、ということをそのまま信じている方が、よほど陽気な楽天家である。彼等は、自分達の痛い所を突かれた場合、しっかりと「それを根に持ち」、充分過ぎるレベルで「恨み」を感じている。
多くのアメリカ人男性が自家用機の操縦を趣味にしている。それは、陽気なカウボーイ達が、馬を飛行機に乗り換えたといった暢気な話ではない。その理由は何か。操縦桿を引いて離陸した瞬間に、妻や家族や、その他諸々の「地上の建前」から開放されるからだ。快哉を叫ぶ唯一の機会が「大空の彼方だけ」だから、という話を聞いたことがある。自分の女房にすら言いたいことも言えないアメリカ人が、現実逃避だけが楽しみのアメリカ人が、高が日本人に言いたいことを言わせるはずがないではないか。
留学生のその後を調べて見れば分かる。アメリカの主張に沿った議論を行う者は重用され、そうでないものは、「ガス抜きの存在」として巧みに使われる。本人達にこの自覚がある者はいい。多くの学生は、この違いが分からない。
帰国後、やたらにアメリカの自由さを論ずる者は、ほぼ間違いなく前者であり、彼等は「留学成功組」として、国内でも出世街道を走り出す。後者の一部は、帰国後にようやくその真の意味を悟り、隔靴掻痒たる自らの留学体験を語ろうとしなくなる。国内に「アメリカ自由の国」説が蔓延している以上、それを肯定する者は、よく学んできた者であり、それを否定する者は、日本文化の殻を破ることができず、異文化交流を体得できなかった怠け者なのである。故に前者は栄進し、後者は落後するわけである。
大学ですらコネで決まるアメリカ社会の、何処に自由があるというのか。「日本の制度は硬直している」などというアホな話ばかりが横行しているが、日本が硬直しているというのなら、「アメリカは既に死後硬直」の状態であろう。
従って、当然のこととして、アメリカ人と話す時には、最大限の警戒心をもって当たらねばならない。「自分の思うまま」などと、言葉も選ばずにぶつければ、「同じ人間」として、当然抱く反発を招くだけである。従って、あの「風俗発言」は、米軍の中に強い痼りを残したであろうことは、疑いのないところである。その反動は、これから本格化する。村山・河野と同様に、本人が居なくなった後まで、長く尾を引くだろう。また一つ、アホが踊って、日本国を貶める醜い伝説を作ってくれたわけである。