カナダにお住いの櫛田B子さまの『天晴!にっぽん』(Hatenaブログ)より転載させて頂きました。
(以下、転載記事。 ↓のタイトルをクリックして元記事に行けます。)
カミカゼ志願は命令でなかった
msn産経ニュース [ライフ] 2014.6.29
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140629/trd14062911410004-n1.htm
学徒出陣して海軍飛行科予備士官となり、特攻隊の募集に「望」と答えた90歳の元海軍少尉が、英語で「カミカゼと日本文化 回顧と再評価」と題する草稿をまとめた。「特攻志願は“命令”ではなかった」と強調する元少尉は、「カミカゼ」を民間人も標的にする現代の狂信的な「自爆テロ」の源流だと認識しがちな外国人に特攻隊の本質を理解してもらおうと健筆を振るった。(岡部伸)
渡辺啓三郎氏
■熱望・望・否の3択
草稿をまとめたのは、メキシコ南バハ・カリフォルニア州ラパス在住の渡辺啓三郎さん(90)。
渡辺さんは、昭和18年12月、学徒出陣して広島県の大竹海兵団に入団。19年2月に第1期海軍飛行専修予備生徒として三重航空隊に入隊した。
約3カ月間、飛行訓練を受けながら適性検査を受け、ナビゲーションを担当する偵察士要員となった。鈴鹿航空隊に転属し、同年5月から約半年間、偵察士としての訓練を終えた同年11月ごろ、上官から特攻隊に志願する意思があるかどうか紙に書くように命じられた。制限時間5分以内に「熱望」「望」「否」の3択から選ぶというもので、返事をしない選択肢はなかった。渡辺さんは、迷わず、「望」を選択した。
しかし、配属されたのは無線兵器(戦闘機電話・電波探信儀)の整備員を養成する藤沢航空隊だった。選抜で書いた「望」は「熱望」につながると考え、命令が来れば、いつでも特攻として出撃すると覚悟してレーダーの実験飛行などを続けたが、終戦となった。
選抜で「望」としながら前線の実施部隊に派遣されなかったことを疑問に感じていたが、特攻隊として、前線に配属されたのは「熱望」と答えた者だったことを戦後知った。実際、特攻隊として南の空に散った同期生はいずれも「熱望」と答えていた。20人いた同じ班で「熱望」と書いた3人が出撃しながら3人とも飛行機故障などで生還した。
大多数が「望」と回答した中で、「否」と書いた者もいた。上官から呼び出されたが、「故郷の村で唯一の大学卒業生なので生きて帰りたい」と伝えると、容認され、罰則を受けることはなかった。
■日本文化そのもの
終戦後、31歳で貿易商社を立ち上げ、「カミカゼ・サバイバル」のビジネスマンとして戦後を生き抜いた渡辺さんは、特攻の選抜について「俗説のような命令による強制ではなく、忠臣蔵の四十七士のように自発的に窮地の祖国に尽くそうとする各人の意思を重んずるかたちで行われた。和を重んずる日本文化そのものだ」と語る。
また敗戦後にインドネシアで2千人以上の残留日本軍兵士が独立戦争に関わったことなどをあげて、「アジアの白人支配からの解放も目的の一つだった」と述べ、英語で脱稿した回顧録を上梓(じょうし)する出版社を探している。
◇
【用語解説】学徒出陣と海軍特攻隊
さきの大戦は航空戦が重要となり、旧制大学、高等・専門学校を卒業または在学中の学徒が志願制で、海軍飛行科予備学生・生徒として飛行予備士官となった。『海軍飛行科予備学生・生徒史』によると、神風特別攻撃隊で士官クラス(少尉候補生以上)769人が戦死したが、このうち84%に当たる648人が学徒出陣した飛行予備学生・生徒で占められていた。
◇
【プロフィル】渡辺啓三郎氏
大正12年岡山県生まれ。昭和18年12月、旧制東京外国語学校(現・東京外国語大学)英文科1年で学徒出陣、終戦後の20年9月に復学。22年に卒業し、沖電気に入社。結核で退職後、31歳で貿易商社を設立。欧米などから金属加工の工作機械を輸入するビジネスで成功し、80歳で引退した。メキシコのリゾート地、ラパス在住。
**************
今年1月お亡くなりになった小野田寛郎氏の陸軍中野学校でのエピソードでも、本人の意志こそが重要だった事が紹介されています。
『 国際派日本人養成講座 』
Common Sense : 国と国民の捨て石になる覚悟 ~ 陸軍中野学校
拙記事にて転載:http://d.hatena.ne.jp/b-co811/20140126/p2
「カミカゼ」を民間人も標的にする現代の狂信的な「自爆テロ」の源流だと認識しがちな外国人に特攻隊の本質を理解してもらおう、
という渡辺氏のお話は日本人の私達も知っておきたい、いえ、知っておくべきことだと思います。
「カミカゼ」と「自爆テロ」
「慰安婦」と「ナチスのホロコースト」
に同じ位置づけを与えて、そのような認識を世界に定着させほくそ笑むのは、もちろん本当の日本人ではないはずです。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140629/trd14062911410004-n1.htm
学徒出陣して海軍飛行科予備士官となり、特攻隊の募集に「望」と答えた90歳の元海軍少尉が、英語で「カミカゼと日本文化 回顧と再評価」と題する草稿をまとめた。「特攻志願は“命令”ではなかった」と強調する元少尉は、「カミカゼ」を民間人も標的にする現代の狂信的な「自爆テロ」の源流だと認識しがちな外国人に特攻隊の本質を理解してもらおうと健筆を振るった。(岡部伸)
渡辺啓三郎氏
■熱望・望・否の3択
草稿をまとめたのは、メキシコ南バハ・カリフォルニア州ラパス在住の渡辺啓三郎さん(90)。
渡辺さんは、昭和18年12月、学徒出陣して広島県の大竹海兵団に入団。19年2月に第1期海軍飛行専修予備生徒として三重航空隊に入隊した。
約3カ月間、飛行訓練を受けながら適性検査を受け、ナビゲーションを担当する偵察士要員となった。鈴鹿航空隊に転属し、同年5月から約半年間、偵察士としての訓練を終えた同年11月ごろ、上官から特攻隊に志願する意思があるかどうか紙に書くように命じられた。制限時間5分以内に「熱望」「望」「否」の3択から選ぶというもので、返事をしない選択肢はなかった。渡辺さんは、迷わず、「望」を選択した。
しかし、配属されたのは無線兵器(戦闘機電話・電波探信儀)の整備員を養成する藤沢航空隊だった。選抜で書いた「望」は「熱望」につながると考え、命令が来れば、いつでも特攻として出撃すると覚悟してレーダーの実験飛行などを続けたが、終戦となった。
選抜で「望」としながら前線の実施部隊に派遣されなかったことを疑問に感じていたが、特攻隊として、前線に配属されたのは「熱望」と答えた者だったことを戦後知った。実際、特攻隊として南の空に散った同期生はいずれも「熱望」と答えていた。20人いた同じ班で「熱望」と書いた3人が出撃しながら3人とも飛行機故障などで生還した。
大多数が「望」と回答した中で、「否」と書いた者もいた。上官から呼び出されたが、「故郷の村で唯一の大学卒業生なので生きて帰りたい」と伝えると、容認され、罰則を受けることはなかった。
■日本文化そのもの
終戦後、31歳で貿易商社を立ち上げ、「カミカゼ・サバイバル」のビジネスマンとして戦後を生き抜いた渡辺さんは、特攻の選抜について「俗説のような命令による強制ではなく、忠臣蔵の四十七士のように自発的に窮地の祖国に尽くそうとする各人の意思を重んずるかたちで行われた。和を重んずる日本文化そのものだ」と語る。
また敗戦後にインドネシアで2千人以上の残留日本軍兵士が独立戦争に関わったことなどをあげて、「アジアの白人支配からの解放も目的の一つだった」と述べ、英語で脱稿した回顧録を上梓(じょうし)する出版社を探している。
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【用語解説】学徒出陣と海軍特攻隊
さきの大戦は航空戦が重要となり、旧制大学、高等・専門学校を卒業または在学中の学徒が志願制で、海軍飛行科予備学生・生徒として飛行予備士官となった。『海軍飛行科予備学生・生徒史』によると、神風特別攻撃隊で士官クラス(少尉候補生以上)769人が戦死したが、このうち84%に当たる648人が学徒出陣した飛行予備学生・生徒で占められていた。
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【プロフィル】渡辺啓三郎氏
大正12年岡山県生まれ。昭和18年12月、旧制東京外国語学校(現・東京外国語大学)英文科1年で学徒出陣、終戦後の20年9月に復学。22年に卒業し、沖電気に入社。結核で退職後、31歳で貿易商社を設立。欧米などから金属加工の工作機械を輸入するビジネスで成功し、80歳で引退した。メキシコのリゾート地、ラパス在住。
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今年1月お亡くなりになった小野田寛郎氏の陸軍中野学校でのエピソードでも、本人の意志こそが重要だった事が紹介されています。
『 国際派日本人養成講座 』
Common Sense : 国と国民の捨て石になる覚悟 ~ 陸軍中野学校
拙記事にて転載:http://d.hatena.ne.jp/b-co811/20140126/p2
「カミカゼ」を民間人も標的にする現代の狂信的な「自爆テロ」の源流だと認識しがちな外国人に特攻隊の本質を理解してもらおう、
という渡辺氏のお話は日本人の私達も知っておきたい、いえ、知っておくべきことだと思います。
「カミカゼ」と「自爆テロ」
「慰安婦」と「ナチスのホロコースト」
に同じ位置づけを与えて、そのような認識を世界に定着させほくそ笑むのは、もちろん本当の日本人ではないはずです。