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Channel: くにしおもほゆ
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[転載] 曽野綾子氏「迷惑な隣人 いつまでも過去を問う卑怯さ」

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桃実(Momomi)さまのブログ『桃実 says』より転載させて頂きました。
 
(以下、転載記事)
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曽野綾子氏「迷惑な隣人 いつまでも過去を問う卑怯さ」

毎週水曜日に楽しみにしている産経新聞連載のエッセイ「透明な歳月の光」by 曽野綾子さん。
今日の文は、まるで、昨日の弊記事の続きのような(←んなわけはないけど)内容だったので、忘れないように転載させていただくことにした。
 
 
韓国と中国に対する一般日本人の最近の嫌悪感の原因は、個人の場合に置き換えてみると、意外とよくわかるような気がする。
友だちの一人が、いつもいつも70年昔のことを恨みがましくなじるようなことを言う性格だと、誰しも付き合うのに気が重くなって当然だろう。
これは比喩だが、ある友達がいて、70年前、自分の隣に住んでいる一家が、自分たちに対してどんなにひどい仕打ちをしたかというような話を繰り返すとすれば、それは聞いていても楽しくない話題だから、それとなくその友だちとは疎遠になるだろうと思う。
さらに、時々は、矛先が私自身にも向けられて、あんたのあの女癖の悪いお祖父さんが、女との手切れ金だと言って当時のお金でうちから百円もの借金をしていって、いまだに返していない、というような話を蒸し返されると、もう当のお祖父さんは生きていないのだし、お祖父さんが踏み倒した百円は、今いくらに計算して返したらいいかもわからないから、私はなんといって謝ったらいいかとほうにくれるのである。
ユダヤ人は、自分が個人的に関わったのではない罪は、それが親であろうと子であろうと、代わりに謝ることができない、という立場を取っているという。それを認めたら、今度は自分が犯した罪を、他人に謝らせることもできるようになるからだ、という。
反対に、自分自身が直接に受けたのではない損害 ― たとえば親たちが体験させられた強制収容所での虐待などに対して ― いくら当の加害者が許してくださいと言っても、当事者でない自分は許しを与えることはできない、という立場を取っている、といつか本で読んだことがある。今でもすべてのユダヤ人がそうなのか私にはわからないが。
許されようと許されなかろうと、人間としての個人や国家は、歴史的過去を背負っているが、その人や国家の品格は、近年と現在、どのように生きているかで判断される。
幸いにも、戦後の日本人は、民族としては大勢において、正直に、勤勉に、自ら働いて国の復興を遂げ、犯罪の率も低く、警察は堕落せず、政治家や公務員の汚職は他国と比べればまだましな方と言える。しかも70年近く、われわれはどの国とも戦わずに生きてきた。
幸運もあったが、今日の日本の自立と繁栄は、軍備にお金を使わなかったからだろうと私は思っている。植民地主義などまっぴらだったから、自国の回復と繁栄に力を注げた。それでも、国内はまだ手の廻らないところだらけだ。
人の過去ばかり責める人と、私は友だちにならない。70年前、ほとんどの日本人はまだ生まれていないか幼い子供だった。他人の祖先のやったことまで引き合いに出して責めるのは、日本では卑怯なこととなっている。私は他者を現在とその人の生き方で判断する。
 
 
すっきりした。さすがである。
こういう感覚は、あの半島人らには到底持ちえるものではない。
我々は、そんな連中と友達にならなくていい。隣国だからと言って、無理やり付き合う必要などない。
 

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