産経は立派です。日本人としてのアイデンティティーを保ちましょうと、ずっと呼びかけてくれています。この【海道東征】のシリーズはずっと前に始まって続いています。
神話と歴史の接点の一連のストーリーは学校では忌み嫌われ、決して教えようとはしませんでした。かく言う私もほとんど知りません。
しかし、せっかくひも解いてくれているなら、一緒に読んでいきませんか。
west記事は多くの人の目にとまっていないかもしれないので、この冒頭部分だけを紹介させて頂きます。
日本人として一人ひとりが、自国にもっともっと誇りを持って良いのではと思っています。
【神武・海道東征】 イワレビコ誕生(1)文明伝播 国を豊かにする旅
宮崎市の高台、平和台公園に「平和の塔」が建っている。神事で用いる御幣の形に模して石柱を連ね、高さ36・4メートル。昭和15(1940)年、皇紀2600年を記念して建てられ、十銭紙幣に描かれるほど親しまれた。
戦前は名称も異なった。「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」。カムヤマトイハレビコノミコト、後の初代神武天皇が日向から東征し、大和に橿原宮を造営した際の言葉が基になっている。
「六合(りくがふ)を兼ねて都を開き、八紘(はちくぉう)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(な)さむこと、亦可(またよ)からずや」
日本書紀にそうある。四方の国々を統合して都を開き、天下を覆ってわが家とすることははなはだ、よいことではないか、という国造り宣言である。
この故事に基づいて、塔の四隅には神武の4面性を示す像が配された。荒御魂(あらみたま、=武人)、和御魂(にぎみたま、=商工人)、幸御魂(さちみたま、=農耕人)、奇御魂(くしみたま、=漁人)である。このうち荒御魂像は終戦で削り取られた。軍国主義を憎んだGHQの指示だった。
荒御魂像は昭和37(1962)年、市民らの要望で復活した。ただ、大切な故事が抜けていた。像が持つ楯に描かれていた八咫烏(やたがらす)が、鳥とも鶏とも見える不思議な絵に変わっていたのである。
「3本足ではないので、八咫烏ではないことは間違いない。復元に当たった職人が、東征の故事を知らなかったためのミスです」
塔の案内をする宮崎市神話・観光ガイドボランティア協議会の湯川英男副会長はそう話す。八咫烏は、イハレビコを熊野から大和まで導いた高天原(たかまがはら)の使いで、今でも日本サッカー協会のシンボルになっている。この故事さえ知らない日本人が増えたことを、新たな像は示している。
「東征は実は軍事行動だけではなく、3つの文明・文化を伝播(でんぱ)する旅でした。稲作と鉄器、そして灌漑(かんがい)技術です」
宮崎県延岡市の情報サイト「パワナビ」の黒田健編集長はそう話す。黒田氏は宮崎市などが3年前、東征ルートをたどるキャンペーンを計画した際、イハレビコゆかりの地200カ所以上を踏査した。
「たとえば今は無人の島の海岸近くに井戸を掘ったりしていて、その技術の高さに驚きます。東征は道々の人々の生活を変えていく旅だったと思います」
古事記では16年間、書紀では6年間かかったとされる東征は、建国神話にふさわしい内容になっている。そう指摘するのは立正大の三浦佑之教授である。
「イハレビコは太陽の御子だが、苦難の旅を続け、各地の民と葛藤しながら、成長しながら国の中心部を目指す。敵対者が現れた時には援助者が現れ、道を開いてくれる。まさに王道を描いた物語だと思います」
三浦教授は、神武天皇誕生で日本の神話は完結すると読む。神代と人代をつなぐ存在がイハレビコなのである。
「現存する神武の絵姿を見ると、明治天皇に似ているものが多い。明治維新の近代国家造りが、建国の神話と重ねやすかったためでしょう」
近代日本のスローガンは富国強兵、殖産興業。この文言は、「平和の塔」の四魂(しこん)像と全く同じバランスで構成されている。商工人、農耕人、漁人がいて武人がいる。4分の3は国民を豊かにする人、する言葉なのである。
神武の国造りの精神は現代にも通じる。戦後70年。忘れられた東征の物語を1年間追ってゆく。
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【用語解説】交声曲「海道東征」
詩人・北原白秋(きたはら・はくしゅう)が記紀の記述を基に作詩し、日本洋楽の礎を作った信時潔(のぶとき・きよし)が作曲した日本初のカンタータ(交声曲)。国生み神話から神武東征までを8章で描いている。
皇紀2600年奉祝事業のために書かれ、戦前は全国で上演されて人気を集めたが、戦後はほとんど上演されなくなった。昨年の建国記念の日、白秋の郷里・熊本で復活上演され、話題になった。
白秋の詩は、記紀の古代歌謡や万葉集の様式を模して懐古的な味わいがあり、信時の曲は簡潔にして雄大と評される。