カナダにお住いの櫛田B子さまの『天晴!にっぽん』(Hatenaブログ)より転載させて頂きました。
(以下、転載記事。 ↓のタイトルをクリックして元記事に行けます。)
支那の横暴はいつまで続く
東トルキスタンの国旗と紋章です。
日本ウイグル協会資料庫より
東トルキスタンとは、新疆ウイグル自治区として支那の一部になっている場所です。
先月天安門に車が突っ込み炎上した事件の後、政府は「国家分裂を扇動」「違法な宗教活動に従事」しているとしてウイグル族の人達を大量に拘束したそうです。
「国家分裂」に「違法な宗教」との言い分は侵略国家としての支那をよく現しています。
では支那はどのように近隣国を侵略していったのか、次の記事をもとに少し勉強してみました。
産経ニュース【正論】
http://sankei.jp.msn.com/world/news/131118/chn13111803170003-n1.htm より
中国に呑み込まれる少数民族 防衛大学校教授・村井友秀
2013.11.18
北京・天安門の車炎上事件の背景に、中国の少数民族、ウイグルの問題がある。この問題を理解するには「東トルキスタン」の歴史と現実を知る必要がある。
■「東トルキスタン」の浮沈
ウイグル族を含むトルコ民族は東北アジアのモンゴルからアナトリア半島のトルコまでユーラシア大陸の中央部に広く分布し、中央アジアの西半分は西トルキスタン、東半分は東トルキスタンと呼ばれる。旧ソ連邦を構成していた西トルキスタンは独立して、現在はキルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタンの各共和国となっている。一方、東トルキスタンは19世紀後半に清朝軍が遠征して新疆省を設置し、現在は新疆ウイグル自治区として中華人民共和国の一部になっている。
19世紀後半の東トルキスタン再征服は、欧米列強の侵略に苦しむ清朝には一大慶事であった。遠征軍の司令官は太平天国革命の圧殺者であったにもかかわらず、中国の英雄として中国共産党からも高い評価を受けている。
1862年に中国西北部でイスラム教徒の反乱が勃発し、東トルキスタンは一時、中国本土から完全に切り離された。しかし、76年に清朝は東トルキスタンの再征服に着手する。遠征軍は77年12月にイスラム教徒の最後の拠点を制圧し、84年に「新疆省」を設けた。
東トルキスタン再征服は、欧米列強の侵略と植民地化を経験した漢民族が、自らの植民地として東トルキスタンに目を付け、植民地化(Inner Colonialism)を図ったものだ。
1944年9月、新疆省に駐留する国民党軍とイスラム教徒の間で戦闘が始まり、45年1月、イスラム教徒は「東トルキスタン共和国」の成立を宣言した。中国共産党によれば、「国民党反動派の暴虐、圧迫が新疆において限度に達した時に、新疆人民は民族圧迫に反対する武装闘争を爆発させた」(『新華月報』)のである。
しかし、駐華ソ連大使が仲介を申し入れて、45年10月に国民党政府と「東トルキスタン共和国」の和平交渉が開始され、46年1月に双方が参加する新政府を作る合意が成立し、「東トルキスタン共和国」独立の旗は降ろされた。
■スターリンの独立条件阻め
さらに49年になると10月から12月にかけて中共軍が新疆に入り、中華民国時代は実質的に中国本土から独立状態にあった新疆省も、中国共産党によって再び中国に組み込まれた。55年には「新疆ウイグル自治区」が設置された。
現代の国際社会では、民族自決(一民族一国家)は人々の正当な権利である。旧ソ連憲法によれば、ソビエト社会主義共和国連邦は各民族共和国が独立する権利を保留して「自発的」にソ連邦に参加した連邦国家であった(所属国家選択説)。
ただし、スターリンは民族が独立する条件も示した。
(1)人口が100万人以上ある
(2)共和国の名を冠した民族がその過半数を占めている
(3)外国と国境を接している-という3条件である。
中国ではチベット、ウイグル、内モンゴルの各自治区は、スターリンの言う独立国家の条件を満たしていて、嘗(かつ)てこれらの地域における独立運動のスローガンは、自治区にソ連邦の共和国と同じ権利を認めよというものであった。
中国共産党政権が中国人(漢民族)に支持される最大の根拠は、中国史上、漢民族国家として(異民族国家の元と清を除いて)最大の領土を実現した点にある。仮に少数民族地区が分離独立すれば、中華人民共和国の領土は半分以下になり、共産党は中国人に支持される根拠を失うことになる。
このため、中国共産党は少数民族地区がスターリンの3条件を満たさないように、さまざまな政策をとってきた。最大の効果を上げたのが漢人の移住であった。
■「中華民族」の国が現実化
漢人は中国の総人口の9割以上を占める。中国が持つ最強のカードは人の数だ。中国共産党は建国以来、多数の漢人移民を少数民族地区へ送り込んだ。その結果、内モンゴル自治区では、人口の9割以上が漢人になった。同自治区はもはや、スターリンの民族独立条件を満たさなくなっている。
新疆ウイグル自治区でも同様の状況が生まれつつある。現在、ウイグル人が人口の4割にまで構成比率を減らしているのに対し、漢人は4割を占めるまでになっている。近い将来、新疆ウイグル自治区で漢人が最大の民族になることは確実である。そうなれば、その土地に住む人々の意思を尊重する「民族自決」に基づいて、新疆ウイグル自治区がウイグル人の国として独立するのは不可能になる。ウイグル人独立運動に残された時間は少なくなってきている。
なお、今も依然としてチベット人が人口の9割を占めているチベット自治区でも、青蔵鉄道の開通など移動手段の発達によって、漢人の移住は加速されている。
中華人民共和国は「中華民族」の国であるという中国共産党の主張は、「プロパガンダ」から「現実」になりつつある。(むらい ともひで)
**************
支那が領土にしようと決めた土地に自国民の漢民族を送り込み侵蝕していくやり方です。
日本はこんな国と「友好」などと寝ぼけたことを言っている場合ではありません。
日本ではここ数年で急に支那朝鮮からの労働者が目につくようになりました。
政府や学校が率先して反日国の留学生を招き入れようともしています。
土地も買い漁られています。
1993年に中国を訪問したポール・キーティング豪首相(当時)に対して、李鵬首相(当時)が「日本は取るに足るほどの国ではない。20年後には地上から消えていく国となろう」と語ったことはよく知られていますが、日本国内の協力者が着々と成果を上げていたのでしょう。
支那朝鮮人の引き起こす凶悪事件もあとを絶ちません。
事件をおこした人間がたまたま酷い奴だっただけで、そんなのはどこの国にでもいる、と言う人もいます。
酷いのはごく一部、大半の人は日本と同じで善良だと言われれば、素直な人は「確かにそうだよね」となってしまうでしょう。
でも、そのゆるーい感覚が危ないのです。
次の動画をご覧下さい。
支那人の本性の、もの凄い数の情報のほんのひとつです。
このエントリーを書いている最中にツイッターで流れていたもので、私は初めて見ました。
ツイートしてくださった方へ感謝します。
https://www.youtube.com/watch?v=0eOAwl8bR9w
何の抵抗も出来ない子供を執拗にいたぶる人モドキ支那人です。
病んでるとしか言えません。
しかも最前列でひとりの女性が笑顔でこの様子を見物しています。
先週支那は国連の人権理事会の理事国に選ばれましたが、冗談にもほどがあります。
ここで支那の領土の話に戻ります。
今までエントリーの中で中華人民共和国を中国とも支那とも呼んでいましたが、今日は全て「支那/シナ」です。
これはこう呼ぶ理由がはっきりしたからです。
Shigio YAMAGUCHI's web site (http://www.tamacom.com/~shigio/index-j.html)というHPで
「シナ(支那)を「中国」と呼んではいけない三つの理由」
として支那という呼称(を支那人が嫌がること)と支那が侵略国家であることには重要な関係があることが解説されています。
この解説は五つの体系に分けて書かれています。
この中から一部を引用、後日全文をこのエントリーとは別に掲載させていただきます。
シナ(支那)を「中国」と呼んではいけない三つの理由より
5.なぜ日本人にシナと呼ばれると都合が悪いのか
打ち砕かれた古い中華秩序
さて19世紀末、日本は日清戦争(1894-1895)で清国を破り、 清の属国であった朝鮮を独立させました。 中国王朝を名乗る清が、 もう一つの中国・日本に屈伏し、属国を独立させられたことは、 古い中華秩序が打ち砕かれた象徴的な出来事と言えるでしょう。
しかし日本と清の関係は悪化しませんでした。 清朝の故国である満州は日清戦争の後ロシアに占領されていましたが、 日本は1904年の日露戦争を戦ってロシアを追い出し、清の手に取り戻しました。 さらに日本は満州の地にインフラを築き、治安を守り、産業を発展させました。 この頃からおびただしい数のシナ人が満州に移住してきました。 一方清は、日本の明治維新を手本にして強力な立憲君主制の国になろうとして、大量の留学生を 日本に送りました。今日のシナで、社会科学分野の語彙の7割が日本起源と言われるのはそのためです。
シナの独立と乗っ取り
当時シナ人は清の中で満州人の支配下にありましたが、 日本への留学生らを中心として民族独立運動が起こり、辛亥革命(1911)によって独立を勝ち取りました。 ところが彼らは中華民国を建国(1912)すると、「五族共和」という事を言い始め、 清朝の支配領域すべてを引き継ぐと宣言しました。
下の地図は清朝の支配領域の全体を表したものです。いわゆるシナとは「漢族」と書かれた領域を指します。 清朝の領土を引き継ぐという事は、シナ人の領土だけではなく、 満州、モンゴル、ウイグル、チベットの各民族の領土すべてを自分の支配領域にするということです。 辛亥革命は元々シナ人の民族独立運動だったはずなのに、 いつのまにかシナ人による他民族の支配という別の目的に切り替わっていたのでした。 例えて言うと、強盗団に捕まっていた人質の一人が自由の身になったとたん、 「強盗団の財宝も人質もすべてを自分のものだ」と主張し始めたようなものです。
清代の民族分布
『「日本と中国」歴史の真実』拳骨拓史著 より引用
「中国」の意味の変更による侵略の正当化
その時に戦略的に使われたのが「中国」という言葉です。
元々「中国」とは自国を表す尊称に過ぎなかったのですが、 この頃から支那と同じく、領土や国家を表す固有名詞として使われるようになりました。 しかも清朝の領土を引き継ぐと宣言することで、 かつて一度もシナの領土でなかった広大な領域を「中国」と呼んだのでした。 具体的に言うとこうなります。
つまり、他民族の領土にまで「中国」という名前の覆いをかけて、すべて自分の国ということにしたわけです。
もちろん他民族の同意を得た訳ではありません。 この頃からシナ人は日本に対して「支那と呼ぶな」と言って来るようになります。
結局第二次大戦後、シナは満州国をまんまと自分のものにし、 日本が多額の投資をした満州の産業をも手に入れました。 しかしそれまで満州は、歴史上ただの一度もシナの支配下になったことはありませんでした。 それなのに満州国の建国を助けた日本は、いつのまにか「中国を侵略した」ということにされています。
その後シナは、モンゴル人(一部は独立)、ウイグル人、チベット人に対する侵略、抑圧、虐殺を繰り返し、 それらの地域に大量のシナ人を流入させて「民族浄化」を行っています。 シナ政府はこれらの地域で起きていることをひた隠しにしてきましたが、 次第に世界の人々も、そこで何が起きているかに気づき始めました。 シナ政府は世界からの批判に対して、「内政干渉だ」と言って反発しています。 本来これらの国々は、清朝が倒れた時に満州国のように独立するべきでした。
シナを「中国」と呼ぶことは侵略の手助け
私達がシナをシナと呼ぶ時は、シナ人が満州、モンゴル、ウイグル、チベットの各民族の領土を 侵略している実態が浮き彫りになります。 反対にシナを「中国」と呼ぶ時は、シナ人による他民族の支配を正当化し、 侵略を積極的に手助けしていることになります。 これがシナを「中国」と呼んではいけない 三つ目の理由 です。
〔参考文献〕
『大東亜戦争への道』中村粲著[1990] には、日清・日露戦争から大東亜戦争に至る歴史が詳細に描かれています。 満州がシナの領土かどうかについての詳しい考察があります。
『紫禁城の黄昏』レジナルド・F・ジョンストン著[1934] は、清朝皇帝の家庭教師が自らの見聞を詳細に記録したものです。 満州国建国の正当性を訴えています。 評判の悪い岩波版を買わないように注意。
『「日本と中国」歴史の真実』拳骨拓史著[2007] は、学校で教えられている日本とシナの歴史の間違いを分かりやすく解説しています。 「中国の歴史とは、漢民族による緩やかな異民族抹殺の歴史」とし、日本にとっても他人事ではないと 警告しています。
**************
私も「中国」は中華人民共和国の略だと思っていました。
時々支那と呼ぶのは、祖父母をはじめ周りの大人が「支那そば」「支那チク」、キムチの素は「朝鮮漬けの素」と言うなかで育ったからです。
若い世代の方は親御さんに聞いてみて下さい。
1980年代にチョウ・ヨンピルの歌がヒットする前後あたり迄は朝鮮人の名前は日本語の音読みで報道されていました。
金大中はキム・デジュンではなく、キン・ダイチュウ。
金日成はキム・イルソンではなく、キン・ニッセイでした。
(もっとも、今の朝鮮人は漢字がほとんど分からないそうですから、日本でわざわざ漢字を使って呼んであげる必要はないかもしれません。)
気が付けば今では日本中、朝鮮語だらけです。
NHKはシルクロードの特集番組で「チュウゴク」ファンを生み出し、1989年の天安門事件では大した事は起きなかったと報道し国民を騙してきました。
支那と(その手先の)朝鮮の日本潰しに国内の売国勢力が一枚噛んでいるのは今や周知の事実です。
気をつけましょう。
支那朝鮮との友好はあり得ません。
最近、朝鮮の愚行に対し「チュウゴクの方がまだマシ」との感想や専門家の意見が頻繁に見られます。
私はこれこそ日本が危ない兆候だと思うのです。
国交断絶が無理なら「有効利用してやる」くらいの姿勢でも罰は当たらないでしょう。
もちろん他民族の同意を得た訳ではありません。 この頃からシナ人は日本に対して「支那と呼ぶな」と言って来るようになります。
結局第二次大戦後、シナは満州国をまんまと自分のものにし、 日本が多額の投資をした満州の産業をも手に入れました。 しかしそれまで満州は、歴史上ただの一度もシナの支配下になったことはありませんでした。 それなのに満州国の建国を助けた日本は、いつのまにか「中国を侵略した」ということにされています。
その後シナは、モンゴル人(一部は独立)、ウイグル人、チベット人に対する侵略、抑圧、虐殺を繰り返し、 それらの地域に大量のシナ人を流入させて「民族浄化」を行っています。 シナ政府はこれらの地域で起きていることをひた隠しにしてきましたが、 次第に世界の人々も、そこで何が起きているかに気づき始めました。 シナ政府は世界からの批判に対して、「内政干渉だ」と言って反発しています。 本来これらの国々は、清朝が倒れた時に満州国のように独立するべきでした。
シナを「中国」と呼ぶことは侵略の手助け
私達がシナをシナと呼ぶ時は、シナ人が満州、モンゴル、ウイグル、チベットの各民族の領土を 侵略している実態が浮き彫りになります。 反対にシナを「中国」と呼ぶ時は、シナ人による他民族の支配を正当化し、 侵略を積極的に手助けしていることになります。 これがシナを「中国」と呼んではいけない 三つ目の理由 です。
〔参考文献〕
『大東亜戦争への道』中村粲著[1990] には、日清・日露戦争から大東亜戦争に至る歴史が詳細に描かれています。 満州がシナの領土かどうかについての詳しい考察があります。
『紫禁城の黄昏』レジナルド・F・ジョンストン著[1934] は、清朝皇帝の家庭教師が自らの見聞を詳細に記録したものです。 満州国建国の正当性を訴えています。 評判の悪い岩波版を買わないように注意。
『「日本と中国」歴史の真実』拳骨拓史著[2007] は、学校で教えられている日本とシナの歴史の間違いを分かりやすく解説しています。 「中国の歴史とは、漢民族による緩やかな異民族抹殺の歴史」とし、日本にとっても他人事ではないと 警告しています。
**************
私も「中国」は中華人民共和国の略だと思っていました。
時々支那と呼ぶのは、祖父母をはじめ周りの大人が「支那そば」「支那チク」、キムチの素は「朝鮮漬けの素」と言うなかで育ったからです。
若い世代の方は親御さんに聞いてみて下さい。
1980年代にチョウ・ヨンピルの歌がヒットする前後あたり迄は朝鮮人の名前は日本語の音読みで報道されていました。
金大中はキム・デジュンではなく、キン・ダイチュウ。
金日成はキム・イルソンではなく、キン・ニッセイでした。
(もっとも、今の朝鮮人は漢字がほとんど分からないそうですから、日本でわざわざ漢字を使って呼んであげる必要はないかもしれません。)
気が付けば今では日本中、朝鮮語だらけです。
NHKはシルクロードの特集番組で「チュウゴク」ファンを生み出し、1989年の天安門事件では大した事は起きなかったと報道し国民を騙してきました。
支那と(その手先の)朝鮮の日本潰しに国内の売国勢力が一枚噛んでいるのは今や周知の事実です。
気をつけましょう。
支那朝鮮との友好はあり得ません。
最近、朝鮮の愚行に対し「チュウゴクの方がまだマシ」との感想や専門家の意見が頻繁に見られます。
私はこれこそ日本が危ない兆候だと思うのです。
国交断絶が無理なら「有効利用してやる」くらいの姿勢でも罰は当たらないでしょう。