先帝陛下の御遺徳を偲び、謹んでカマちゃん様のブログ『美し国(うましくに)』より転載させて頂きました。
(以下、転載記事)
先帝陛下を偲ぶ、「先帝陛下と国民」
昭和天皇陛下、香淳皇后陛下 御尊影
今日は昭和の日、先帝陛下の誕生日にあたります。
かって我国は、畏くも天皇陛下の誕生日を「天長節」皇后陛下の誕生日を「地久節」として国家挙げて祝い慶びました。
戦前の祝祭日は、根拠、目的、由緒がはっきりとしたものでしたが、戦後の祝日法によって定められた祝日は、目的、由緒が漠然としており、これでは何の為の祝日かわかりません。
昭和の日を「昭和節」文化の日を「明治節」とし、皇室祭祀にまつわる祭日も本来に戻すことこそ愛国心を涵養し、今の日本にとって大事なことです。
過去にご紹介させていただいた、先帝陛下のエピソードですが、先帝陛下の御遺徳を偲び、「大御心」に常に護られている国民として、感謝の意を捧げ、関西地方は雨ですが、心に国旗を掲揚し、声高らかに、聖寿萬歳を唱えるものです。
かって我国は、畏くも天皇陛下の誕生日を「天長節」皇后陛下の誕生日を「地久節」として国家挙げて祝い慶びました。
戦前の祝祭日は、根拠、目的、由緒がはっきりとしたものでしたが、戦後の祝日法によって定められた祝日は、目的、由緒が漠然としており、これでは何の為の祝日かわかりません。
昭和の日を「昭和節」文化の日を「明治節」とし、皇室祭祀にまつわる祭日も本来に戻すことこそ愛国心を涵養し、今の日本にとって大事なことです。
過去にご紹介させていただいた、先帝陛下のエピソードですが、先帝陛下の御遺徳を偲び、「大御心」に常に護られている国民として、感謝の意を捧げ、関西地方は雨ですが、心に国旗を掲揚し、声高らかに、聖寿萬歳を唱えるものです。
公平無私の上御一人は私にとって命がけでお守りする存在でした」/寛仁親王殿下
――昭和天皇とお二人きりでお話になられたことはございましたか?
■[激励]足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の全国巡幸/松崎敏弥殿下 二十代の頃でしたが、将来のために陛下とどうしても直接お話をして伺いたいことがあると高松伯父様にお願い申し上げたら、二度実現しました。その時の記憶で特に鮮明なのは、陛下が「自分は半生の中で自らの意見を述べたのは二度ある」と淡々とおっしゃったことでした。一度目が二・二六事件の時、二度目が終戦の時というのです。本来陛下を補弼(ほひつ)する責任を持つ重臣たちが、前者の場合は消息不明であり、後者の場合は意見を伺いたい旨を言上(ごんじょう)したわけで、いずれの場合も陛下ご自身がお動きにならざるを得ない状況におかれたのです。この話は後に陛下が記者会見でも発言されましたが、その時は初めて聞く話でしたから、仰天すると同時に背筋がゾッとしました。
またある時、高松伯父様が「若い者が陛下のところに行ってお話ししろ」とおっしゃるので、私と弟の高円宮の二人で陛下のお側に行きました。私は青少年育成で日本中を回っている時の話を色々申し上げました。自分が直に全国各地の青少年と議論をして聞き出してきた、各地方の特色ある生の声を得意になってご説明したのですが、陛下はみんなお見通しでした。「その地方の若者はこういうことを言わなかったか」と、実に的を射たご下問をなさる。各地の若者たちの悩みや問題点をじつによく把握なさっていました。私は帰りの車の中で高円宮と「これは一体どういうことか、不思議なことがあるものだ」と話し合いました。
――昭和天皇は実に細やかな気配りをなさる方であったと伝え聞いております。
殿下 これはあまり世に出していない話ですが、私が昭和五十五年に結婚(信子妃殿下は麻生太郎元首相の実妹)した時に、両陛下をはじめご親族を招いて晩餐会を開いたのです。
義祖母の夏子おばあちゃん、義母の和子女史や義兄の太郎をはじめ、麻生家の親族に列立してもらって、陛下に拝謁を賜りました。父が一人ずつ紹介しようとしたところ、陛下は皆に向かって突然、
「太賀吉は元気でおるか?」
とおっしゃったのです。
実はその時、岳父の麻生太賀吉氏は食道がんで入院中でした。その情報はもちろん陛下のお耳には届いていたのでしょう。それでも陛下のお心遣いに一同言葉にならず、ただポロポロと涙を流すばかりで、とても紹介どころではありませんでした。このような絶妙なタイミングで、思い遣りのお言葉を自然に出されるのが昭和天皇でした。
――国民に対するお気遣いも有名でした。
殿下 台風の時など、まず「稲穂の状況と被災民の様子」を常に心配されて、侍従を通してご下問がありました。それは見事に自然な形で発せられるので、地元の人々はこのお言葉を翌日の紙面で知ると勇気づけられますし、奮起するのです。どの災害、事件の時も同じでした。あれほど「公平無私」の心をお持ちの方を私は知りません。
――今の日本の繁栄があるのは、昭和天皇が常に国家の平安を祈られ、国民を激励し続けてこられたからではないでしょうか?
殿下 敗戦国の元首が国民の中に分け入って熱狂的な歓迎を受けるという例は、世界史上皆無でしょう。ここに、他国の王室や皇室とはどうしても比較できない、陛下と国民の間の人間的な絆があるのです。
ある時、過激派への対策として、皇居や赤坂御用地に機動隊のバスがずらりと並んでいたことがありました。それをご覧になった高松伯父様は宮内庁の役人に、
「お前たち、皇室は軍人や警察官に守られて二千数百年も続いたんじゃないぞ。国民に守られてきたんだ。あんなものは即刻撤去せよ!」
とおっしゃり、翌日、すべての配備をときました。もちろん、何も起こりません。
また、伯父様はこうもおっしゃっていました。
「京都御所を見てみなさい。わずか三十センチくらいの疏水が流れているだけで、誰でも乗り越えられるし、どこからでも侵入できる。でも、長い年月、何者にも侵されていない。それは歴代の国民が守ってくれたからだ」
まさにおっしゃる通りだと思います。良識ある国民の総意で万世一系の百二十五代は続いてきたのです。
またある時、高松伯父様が「若い者が陛下のところに行ってお話ししろ」とおっしゃるので、私と弟の高円宮の二人で陛下のお側に行きました。私は青少年育成で日本中を回っている時の話を色々申し上げました。自分が直に全国各地の青少年と議論をして聞き出してきた、各地方の特色ある生の声を得意になってご説明したのですが、陛下はみんなお見通しでした。「その地方の若者はこういうことを言わなかったか」と、実に的を射たご下問をなさる。各地の若者たちの悩みや問題点をじつによく把握なさっていました。私は帰りの車の中で高円宮と「これは一体どういうことか、不思議なことがあるものだ」と話し合いました。
――昭和天皇は実に細やかな気配りをなさる方であったと伝え聞いております。
殿下 これはあまり世に出していない話ですが、私が昭和五十五年に結婚(信子妃殿下は麻生太郎元首相の実妹)した時に、両陛下をはじめご親族を招いて晩餐会を開いたのです。
義祖母の夏子おばあちゃん、義母の和子女史や義兄の太郎をはじめ、麻生家の親族に列立してもらって、陛下に拝謁を賜りました。父が一人ずつ紹介しようとしたところ、陛下は皆に向かって突然、
「太賀吉は元気でおるか?」
とおっしゃったのです。
実はその時、岳父の麻生太賀吉氏は食道がんで入院中でした。その情報はもちろん陛下のお耳には届いていたのでしょう。それでも陛下のお心遣いに一同言葉にならず、ただポロポロと涙を流すばかりで、とても紹介どころではありませんでした。このような絶妙なタイミングで、思い遣りのお言葉を自然に出されるのが昭和天皇でした。
――国民に対するお気遣いも有名でした。
殿下 台風の時など、まず「稲穂の状況と被災民の様子」を常に心配されて、侍従を通してご下問がありました。それは見事に自然な形で発せられるので、地元の人々はこのお言葉を翌日の紙面で知ると勇気づけられますし、奮起するのです。どの災害、事件の時も同じでした。あれほど「公平無私」の心をお持ちの方を私は知りません。
――今の日本の繁栄があるのは、昭和天皇が常に国家の平安を祈られ、国民を激励し続けてこられたからではないでしょうか?
殿下 敗戦国の元首が国民の中に分け入って熱狂的な歓迎を受けるという例は、世界史上皆無でしょう。ここに、他国の王室や皇室とはどうしても比較できない、陛下と国民の間の人間的な絆があるのです。
ある時、過激派への対策として、皇居や赤坂御用地に機動隊のバスがずらりと並んでいたことがありました。それをご覧になった高松伯父様は宮内庁の役人に、
「お前たち、皇室は軍人や警察官に守られて二千数百年も続いたんじゃないぞ。国民に守られてきたんだ。あんなものは即刻撤去せよ!」
とおっしゃり、翌日、すべての配備をときました。もちろん、何も起こりません。
また、伯父様はこうもおっしゃっていました。
「京都御所を見てみなさい。わずか三十センチくらいの疏水が流れているだけで、誰でも乗り越えられるし、どこからでも侵入できる。でも、長い年月、何者にも侵されていない。それは歴代の国民が守ってくれたからだ」
まさにおっしゃる通りだと思います。良識ある国民の総意で万世一系の百二十五代は続いてきたのです。
当時の天皇と国民との関係については、私にも印象的な思い出がある。小学生のとき、学校の夏期合宿からの帰り、軽井沢の手前の横川駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったときのことだ。引率していた女性教師が、汽車の窓を開けてはいけないと注意した後に、「私は天皇陛下万歳とはいいません。そういう人間ではありません」といった。ところが、いざお召列車が目の前を通り、天皇陛下がこちらに手を振っておられた時、その女性教師は他の乗客たちと一緒になって「天皇陛下万歳」と叫びながら、号泣していたのである。
後に、先生が婚約者を戦争で亡くしていたと聞いた。複雑な感情を持ちながら、それでも目の前を通るお召列車に向かって泣きながら「天皇陛下万歳」といわずにはいられなかった姿を、皇室記者になってからも、たびたび思い出した。
ユーモアと感動に満ちた昭和天皇「五つの佳話」/加瀬英明
天皇は敗戦の年の昭和20年12月に、松村謙三農林大臣を皇居に呼ばれてこういわれた。
「戦争で塗炭(とたん)の苦しみを受けた国民に、このうえ餓死者を出すことは自分には耐え難い。政府が要請をしたのにもかかわらず、アメリカは食糧を与えてくれないという。だが、考えれば、当方に代償として提供すべき何物もないのだから、いたしかたがあるまい。
それで聞けば、皇室の御物(ぎょぶつ。天子の所有物、あるいは皇室の所蔵品)のなかには、国際的に価値のあるものが相当あるとのことだから、これを代償としてアメリカに渡して食糧に代えて、国民が飢餓を一日でもしのぐようにしたい」
そして帝室博物館の館長に命じてつくらせてあった皇室御物の目録を農相に渡された。天皇の意向は幣原喜重郎首相(在任昭和20年10月~21年5月)を通じてマッカーサーに伝えられた。しかし、マッカーサーは「それは皇室の人気取りだ。そのようなものは必要ない。私が責任を持って、かならず本国から食糧を輸入する方法を講じよう」といって、緊急食糧を日本に放出するようワシントンに求めた。
昭和54年8月、宮内庁記者団とのご会見のときに、記者団から当時のことについて質問が出された。
「そういうことがあったのは事実です。しかし、自分のしたことですから、あまり公にしたくはありません」
これが天皇のご返事であった。
※昭和24年から東宮御教育常時参与となった小泉信三博士は、皇太子(今上天皇)の教育係を引き受けるに当たって、昭和天皇に拝謁した。
そのときに、「陛下の御態度は、侍臣のおすすめ参らせた結果によるものでしょうか、あるいは古の聖人の書や明哲の伝記などをお読みになって、そういう習慣を御身につけられたのでしょうか」とうかがった。
すると、天皇はいとも簡単に「それは人のすすめによったものでもなく、読書の結果でもない。これはわが家の伝統である」とお答えになった。
※天皇は酒を飲まれなかったし、美食を好まれることもなかった。衣類についても飾ろうとされることがなかった。側近にすすめられて、公務の場で着られる洋服を新着されても、新調した服が傷まないように、奥に入られると几帳面にすぐに古い背広に着替えられた。
※皇太子が学習院初等科を卒業された昭和21年3月、天皇はお祝いに写真機を贈ることを思いつかれた。侍従に「市場にあるものは、闇市でたかいことだろう。(宮内省)写真部に中古はないか」と写真部から中古品を一つ取り寄せられた。
「これでよろしい。皇太子にはこれが手ごろだよ。あまり立派なものや、高いものを与えては、将来のためにならない」
といわれた。今上天皇のカメラ好きはこのときに始まる。
※昭和のはじめ、陸軍大演習のため名古屋地方へ行幸された際、演習終了後に名古屋市内にある愛知時計電機の工場を視察されたその夜、30名ばかりの地方の民間功労者を晩餐(ばんさん)に招かれた。
時計が話題となった。すると陪食(ばいしょく)を賜(たまわ)った一人が、チョッキから金鎖を手繰(たぐ)り、金時計を取りだし、得意げに「陛下、これは外国製で御座居ますが、実によく合います。国産のものはどうしても不正確で、まだまだとうてい外国製には及びません」と申し上げた。
天皇はそれを聞かれると、ご自分の右ポケットから懐中時計を取り出された。
「わたしのこの時計は12円50銭の国産品だけどもよく合うよ」
と嬉(うれ)しそうに示された。その時計は侍従が天皇にいわれて東京・銀座のシチズン時計店で買ってきたものだった。高価な外国製時計よりもはるかに安価だったが、天皇はお使いになって外国製に負けないことを心から喜ばれていたのだった。
※昭和天皇の即位式である即位大礼が行なわれたのは、大正天皇の諒闇(りょうあん。天子が父母の喪に服する期間)が明けた昭和3年11月だった。天皇は27歳。
翌月の15日、東京の皇居前広場で、東京、千葉、埼玉、山梨、神奈川の諸団体から、青年男女約8万人が参加する大礼奉祝の式典が行なわれ、天皇が御親閲されることになった。天皇は大会の開催に同意されるとともに、天候を心配された。
「もしも当日、雨が降ることがあったら、青年たちに雨具を着用させるようにしてほしい。また、いかような大雨になっても、わたしが立つ場所に天幕を張ってはならない」
とお命じになった。当日は早朝から大雨であった。そこで、御座所の位置の上に天幕が張られた。宮内大臣をはじめ側近たちは天皇のご健康を思いやってのことだったが、天皇は「天幕を取りに除いてほしい。司令官も時と場合によっては第一線にたつことがある。今日はわたしのいうことに従ってほしい」と要望された。
午後2時、天皇は雨のなかを二重橋正門から自動車で式場に到着された。天皇が下車されると、侍従がすぐにうしろから雨用のマントをおかけした。だが、お立ち台の上でマントをお脱ぎ捨てになった。広場を埋め尽くした青年たちが篠突(しのつ)く雨のなかを雨具もつけずに全身を濡らしているのを、ご覧になったからだった。
やがて、青年たちが御前で分列行進を開始すると、天皇はずぶ濡れになられながらも繰り返し、挙手の礼をもって答礼された。多くの青年たちは感動して、涙が雨にまじって顔を濡らした。
天皇は式典が終わる1時間20分のあいだ、軍帽や軍服から水をしたたらせながらお立ち台に裁ち続けられた。
当時の代表的なジャーナリスト、徳富蘇峰は翌日の「国民新聞」に、式典の天皇の姿に感動して「真に感涙が溢るる」という文章を寄稿した。
やすらけき世を祈りしもいまだならず
くやしくもあるか きざしみゆれど
昭和六十三年に、「全國戦没者追悼式八月十五日」と題されて詠ませられた畏くも、先帝陛下の大御歌(おおみうた)です。
陛下最晩年の御製であり、公に発表された大御歌でこの後に詠まれた御歌は二首のみです。
畏くも、先帝陛下のお嘆きの深さを痛感致します。
ご病状も進み、那須の御用邸でご療養中であられたにもかかはらず、八月十五日の『全國戦没者追悼式』にヘリコプターで移動あそばされ、御親覧あそばされたのであります。
畏くも、先帝陛下はそれほどまでに戦没者に対する慰霊と感謝の思いをお持ちになっておられたのであります。有難き限りであります。
畏くも、先帝下はこの2年前に、
この年のこの日にもまた靖國の
みやしろのことにうれひはふかし
と詠まれあそばされ、必死の力をふりしぼり全國戦没者追悼式の壇上にのぼられたのであられました。
六十三年間もご在位になり、この全く異例の恐れ多い最後の國事に対しての御製になったことは臣下として全く申しわけなく思います。
出雲井晶さんは、「『やすらけき…』を拝誦しますとき、申しわけなさに身のちぢむ思いがするのは私だけではないでしょう。…國民みなが思し召しを自分の問題としてとらえ、無私の大御心をみならおうと努めるとき、現今の様々な危機的状況は次第に消えましょう。
わが國の本当の姿である『明き清き誠の心』がみなにあらわれ、わが國は新しくよみがえりましょう。天上にいます昭和天皇にご安堵いただける日のくることを祈らずにはおられません。」(『昭和天皇』)と書かれています。
大東亜戦争終戦後、先帝陛下はマッカーサーは戦後、11回にわたり会談あそばされた。
しかし、マッカーサーが解任されたとき先帝陛下はアメリカ大使館を訪問あそばされ、別れの挨拶をされました。
しかし、マッカーサー離日の日、GHQからの要請にもかかわらず、先帝陛下は見送りにいかず侍従長遣わされたのみでした。
昭和39年マッカーサーは84歳で死去し、バージニア州のノーフォークにはマッカーサー記念館が建設されました。
昭和50年、先帝陛下は訪米されました。このときマッカーサー記念館から記念館来訪と墓参の要請がきましたが、先帝陛下はこれを断りあそばされた。マッカーサーの未亡人から改めての要請の手紙がきましたが宮内庁はこれを拒みました。
訪米あそばされた先帝陛下はワシントンの歓迎行事を前にウイリアムバーグで2日間の休養をとられましたが、この町からマッカーサー記念館まで車でわずか40分の距離にありました。それでも先帝陛下は記念館には出御あそばされませんでした。
訪米あそばされた先帝陛下はワシントンの歓迎行事を前にウイリアムバーグで2日間の休養をとられましたが、この町からマッカーサー記念館まで車でわずか40分の距離にありました。それでも先帝陛下は記念館には出御あそばされませんでした。
GHQは民主主義を米国が日本に持ち込んだと盛んに刷込みました。
現在でもマッカーサー信者がわが国にも存在します。
しかし、訪米を前に外国人記者団に先帝陛下は次のように叡慮を述べられています。
記者「戦後の日本の民主化、皇室自体の変化、婦人や労働組合の変化など具体的な問題をどう考えられますか」
陛下「そのような動きを変化と呼べるかもしれません。しかし、日本の民主主義の基盤は、明治時代の初期にさかのぼるものです。わが国の旧憲法は明治天皇の『五箇条の御誓文』に基づいていました。私はこの五箇条が日本の民主主義の基盤であったと信じています」
明らかにマッカーサー及び、米国の悪意ある占領政策を否定された先帝陛下。
國父の大御心、臣民知らず、最も恥ずべきことであります。
國家のことに一身に背負われるのは、行政の長、内閣総理大臣でも、政治家でもありません。肇國以来、上御一人、陛下ただお一人なのです。
先帝陛下の大御歌(おおみうた)
やすらけき世を祈りしもいまだならず
くやしくもあるか きざしみゆれど
心ある臣民の皆様には、今一度熟考いただきたい。
そして世界平和と、日本国民の幸せを願われた先帝陛下の御遺徳を偲び、今上陛下の「大御心」に感謝し、「昭和節」「昭和神宮」への声が巷に広まることを願ってやまないのです。
天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳