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[転載] 吉田清治の息子は朝鮮人…在日成り済まし説を追う

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オンマニペメホンさまのブログ『仮称 パルデンの会(FREE TIBET PALDEN )』より転載させて頂きました。
元記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/yoshi2_99/33341673.html                                      
(以下、転載記事)

吉田清治の息子は朝鮮人…在日成り済まし説を追う





http://dogma.at.webry.info/201401/article_2.html
吉田清治の息子は朝鮮人…在日成り済まし説を追う
<<   作成日時 : 2014/01/27 19:32   >>

捏造慰安婦を描いた小説家・吉田清治には僅か4歳下の息子がいた。実名は李貞郁。ペテン師が朧げに明かした半生もまた嘘と謎に満ちている。そして闇に生まれた男は、再び闇の中に消え去った…
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詐欺師と呼ぶには影響が余りにも大き過ぎる。小さな反日の火を煽る為に創られた物語は、我が国と南鮮の決定的な断絶を生み出し、米国を巻き込む大火となった。

捏造慰安婦問題の火の粉が舞い上がった平成4年。NHK山口放送局は、吉田清治の“証言”に基づいた番組を企画、数十人を取材したが、ウラが取れなかった。その際、吉田本の出版先は、こうNHK側に説明した。

「あれは小説ですよ」

非常にシンプルな結論だ。吉田清治のデビュー作『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社S52年刊)も、第二作『私の戦争犯罪』(三一書房S57年刊)も、ノンフィクションではなく、架空戦記だった。
▼物語的に地味だったデビュー作
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/421/23/N000/000/015/139081067924355442227.png

小説が何故、ドキュメント作品と扱われたのか…それも理由は単純だ。著者の吉田清治が自らノンフィクションだと言い張っていたからである。出版社側も表向き否定することはなかった。

しかし、実録作品にしては最初から奇妙だった。吉田清治とはペンネームで、本名は吉田雄兎という。まず、個人体験を基にしたノンフィクション作品で無名の新人が筆名を使うケースは珍しい。

加えて、吉田本の場合は「戦後30年以上を経て当事者が初めて告発した」ことが最大のセールスポイントだった。登場人物の仮名表記は有り得るが、“勇気ある告発者”までが本名を隠すのは不自然である。
▼TBSは吉田精治と報道(H4年頃)
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他にも吉田は「東司「栄司」といった筆名を使い、本名を明かすことはなかった。歴史家が作品中の“史実”に違和感を覚えても、実名が判らない以上、追跡は困難。それが吉田本の仕掛けの一つでもあった。

吉田の小説に登場する「私」は創作された人物に過ぎない。そして、作者もまた架空の存在に近い正体不明の人物だった。

【小説と認める勇気はなし】

「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」(『昭和史の謎を追う・下』文春文庫498頁)

済州島の地元紙『済民新聞』の文化部長は92年3月、訪ねてきた日本人にそう聞き返した。現地を訪れたのは、歴史家の秦郁彦氏だ。地元メディアの素朴な疑問に対し、秦氏は答えに窮したという。
▼吉田本に疑問投げ掛ける地元紙の書評(89年)
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この時の現地調査で、吉田清治の嘘は完全に暴かれた。ストーリーに登場する逸話の裏付けが何一つ発見されなかったのである。物語のハイライトである「慰安婦狩り」そのものが創作だと判明した瞬間だ。

「著書は小説だったという声明を出したらどうか?」

秦氏は電話で直接、吉田清治にそう勧めた。現地調査の結果が産経新聞や『正論』で大きく取り上げられてから既に数年後のことだ。しかし、吉田清治は突っぱねた。
「私にもプライドはあるし、八十五歳にもなって今さら…このままにしておきましょう」(『慰安婦と戦場の性』新潮選書246頁)
▼秦郁彦氏H25年12月(産経)
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吉田清治に“訂正”を求めたのは、歴史真実派だけではなかった。捏造派の生き残り、吉見義明も吉田に「誇張部分の訂正」と原資料だと主張する「妻の日記」の公開を要請したが、同様に拒まれた。

「私どもも吉田清治証言が正しいというふうには言っていないわけですね。私の書きました本『従軍慰安婦』でも吉田証言は一切取り上げておりません」(『歴史教科書への疑問』展転社224頁)
▼吉田の口封じを謀った吉見善明(NYT)
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吉見善明は、吉田の小説を著作に引用しなかったことが自慢だ。吉田本がフィクション作品であることを暴いた決定打は、秦氏の現地調査だが、それ以前に吉見らは疑いを抱いていたと推測できる。

吉田清治が済州島に乗り込んで「慰安婦狩り」を行なったという記述が、デビュー作では「昭和19年4月」なのに対し、2作目では「昭和18年5月」と異なる。単純な設定ミスがあったのだ。

そして、小説内で披瀝される経歴も嘘と虚飾に満ちていた。

【吉田が元軍人というデマ】

吉田清治はデビュー作で「本籍地は山口県」と記しているが、実際は福岡県芦屋町西浜。そして上京して都内の大学に通ったという。朝日新聞は吉田の学歴を法政大卒と報道したが、明らかな詐称だった。

また秦郁彦氏に対しては法政大中退と説明していたが、同大学には在籍記録が存在しない。この学歴詐称だけでも吉田清治が生粋のペテン師であることが判る。職歴に至ってはなおさらだ。
▼吉田清治こと吉田雄兎(撮影日不明)
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昭和14年から約1年間、吉田は日系キャリアの中華航空上海支店で営業所主任を務めていたと自己紹介する。だが、元中華航空の関係者で吉田を記憶している者は皆無だった。主任を誰も覚えていないのである。

秦氏が精緻に経歴を追って事実確認が出来たのは、戦中に吉田清治が労務報国会という半官半民の組織で働いていたことだけだった。これが「慰安婦狩りの実行部隊」として小説に登場する組織だ。
▼衝撃シーンを加味した小説第二作
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吉田清治について「元日本軍人」と解説されるケースが多く見られた。ウィキペディアでも誤った説明が訂正されず、残っている。吉田雄兎が所属していた労務報国会は、軍とは一切関係のない団体である。

労務報国会は、日雇い労働者の適正配置を促進する目的で昭和17年に設立された。荒っぽい沖仲士などの労務者と供給・斡旋する業者らの特殊な組織。そこで吉田は下関支部の動員部長だった自称する。
▼動員部長の役職は真偽不明(TBS)
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秦氏の調査で、当時の吉田を知る人物が複数確認された。組織にいたことは事実だ。同時に、吉田の自称ノンフィクションに最初の疑問が呈されたのも、この組織だった。

「慰安婦狩の命令は西部軍→山口県知事→下関警察署長→吉田のラインで来たとしているが、関係者はこのような命令系統はありえないと否定する」(『昭和史の謎を追う・下』文春文庫498頁)

西部軍とは中国・四国・九州を管轄する帝国陸軍の大組織だ。その司令官からの命令書を吉田が受け取ったというのだ。プロット段階で話が荒唐無稽すぎた…焦点の慰安婦狩りシーンは全て創作である。

史実どころか自分史をも嘘で塗り固めた吉田清治。その人生で最も不可解なかたちで登場するのが、吉田の息子だ。

【突然現れた4歳下の“息子”】

金永達(キム・ヨンダル)という息子が吉田清治のデビュー作『朝鮮人慰安婦と日本人』で紹介されている。もちろん日本人ではなく、朝鮮人。そして、この名前もまた仮名だ。

実名は、李貞郁(リ・ジョンウク)。秦氏への説明によると、吉田は昭和12年4月に、この李貞郁を養子に迎え入れたという。不自然で唐突すぎる縁組みだ。
▼秦氏が作成した正誤表(前掲書より)
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この時、大正2年生まれの吉田雄兎は24歳。設定では大学卒業直後の独身者だ。一方の李貞郁は、大正6年生まれの20歳だった。4歳年下の朝鮮人をいきなり養子として入籍させたとうのである。

吉田の小説では、息子は同じ昭和12年に満州に渡って日本人教師と結婚。そして陸軍に入隊し日支事変で戦死する。実際とは大きく異なるフィクション上の無駄な盛り上げエピソードだ。

「養子にした李貞郁は、戦後は日本人として生活していたので、差別を避けるため金永達の仮名を用い、戦死していたことにしておいた」(『慰安婦と戦場の性』244頁)
▼南鮮で涙の謝罪演じる吉田(92年)
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嘘が暴かれてから4年後の平成8年、吉田は秦氏にそう明かした。悲劇的な息子の戦死シーンは完全な創作だった。それでも吉田清治は、著作がフィクションであることを認めようとしなかった。

吉田本は一事が万事、こんな調子である。秦氏の質問に対し、吉田の息子・李貞郁は昭和17年に妻帯し、58年に死亡したと答えている。また生前の職業は、労働組合の幹部だったという。

奇妙なストーリーだ。朝鮮人を養子に迎えるには、相応の背景なり理由があるはずだが、吉田は何も語っていない。24歳の独身男が朝鮮青年を養子にするという異常事態に親兄弟ら縁者は反対しなかったのか?

養子縁組までの事情を深く探れば、吉田清治の正体が見えてくるかも知れない。

【1人目の吉田雄兎は死んでいた】

吉田清治とは何者なのか…プロフィールを調査していた秦郁彦氏は、学歴を辿る過程で、衝撃的な事実に出くわす。吉田雄兎は、戦前に死亡していたのだ。

昭和初頭、吉田雄兎は地元福岡の門司市立商業高等学校に入学した。同校は大正7年創立の伝統校で、現在は福岡県立門司大翔館高校へ名称を変更している。

その門司市立商高の昭和6年度卒業生名簿には、吉田雄兎「死亡」と記されていたのだ。何らかのミスがあったようには思えない。不明ではなく、ハッキリと死亡だ。
▼秦氏が作成した正誤表(前掲書より)
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我が国の戸籍制度は戦前から厳格で、軽々に市民を死亡扱いとすることはない。公的な資料とも言える公立校の卒業名簿で死亡者になっていたことは、素性を探る上でスルーできない。

福岡は吉田の出身地である。親兄弟・親類縁者が身近に居れば、卒業名簿で「死亡」と誤表記される事態には至らないだろう。非常に不自然である。実際の戸籍上では、どのような扱いなのか興味が尽きない。

そして、高校での死亡扱いから40年余り、吉田雄兎の本名を持つ、異形の架空戦記作家が世に現れる。果たして、吉田清治の筆名を名乗る男と卒業名簿で死亡扱いだった吉田雄兎は同一人物なのか…
▼南鮮で記者会見する吉田清治(92年)
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「成り済まし」「背乗り」というキーワードが浮かぶのは筆者だけではないだろう。物証は何一つないが、ズバリ直言しておこう。吉田清治は在日朝鮮人である可能性が存在するのだ。

吉田が24歳の時に養子にした李貞郁は、実の弟なのではないか? 密かに九州に渡った朝鮮人が死亡扱いの日本人の戸籍を乗っ取り、そして実弟を養子として入籍した…そんなストーリーだと辻褄が合う。

吉田本には、両親や他の家族にまつわるエピソードが殆ど登場しない。偽りの個人史の片隅に出てくるのは、唐突に養子にした“息子”李貞郁と昭和19年5月に結婚した妻のフサエだ。
▼吉田清治こと吉田雄兎(読売)
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ドキュメントを偽装する小説として、少年時代や家族の逸話をバッサリ削ることは構成的に不自然。渡日前だった為に吉田清治は、少年期について描写することが出来なかったのではないか。

いったい、吉田清治こと吉田雄兎は何処から来て、何処に消えたのか…うっすらと寒気を覚える吉田ミステリーには、まだ続きがあった。

【闇から生まれ闇に消えた男】

平成26年の現在、吉田清治は生きている。反日ファシストの「心の中」とかファンタジーではなく、この現代社会で生きている。正確に言えば、死亡が確認されていないのである。

吉田清治こと吉田雄兎の生年月日は、大正2年(1913年)10月15日。実に100歳を超えている。生きていても決して不思議ではない年齢だ。

しかし、今世紀に入ってぷっつりと沙汰が途絶えた。秦郁彦氏が自白を引き出したのが、最新の発言になるかも知れない。16年前のことである。当時、吉田雄兎は85歳と話していた。
▼23年前の吉田清治(TBS)
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22年前の映像を見て判るように、すでに高齢化が著しい。一般論として、この後20年以上も命を永らえているとは想像できないのだ。もし、今も生きているなら吉田雄兎は、どこに居るのか…

養護施設で暮らしている可能性もあるだろうが、それを示唆する情報も皆無だ。稀代のダークヒーローとして盛んに取り上げた反日メディアも、吉田の消息について一切触れていない。

マイク・ホンダ策謀が発動中の頃、どこかの報道機関が吉田清治を取り上げると考えていたが、結局、吉田がメディアに登場することはなかった。完全に消えてしまったのだ…
▼南鮮に招かれた吉田清治(92年)
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我が国では年間に約1000人程が行旅死亡人として埋葬される。行旅死亡人とは、行き倒れ人など身元不明の死亡者。ドヤ街を転々とし、身寄りもIDカードも持たず、ひっそり他界する者も少なくない。

だが、吉田は住所不定の労務者とは違う。著作権所有者は、個人情報満載の「著作権台帳」を活用すれば追跡が容易い。そして、著作権切れを判定する必要から、死亡年月日の確認は重要なのだ。

それでも出版元を介したおぼしき情報もない。ミステリーである。専門分野であるにせよ、吉田清治はUNリポートにも名を刻む著名人。そして反日陣営が頼る“唯一の加害側証言者”である。
▼日本人として謝罪した吉田清治(92年)
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この反日VIPが、捏造慰安婦騒ぎが拡大し続ける中、現代の日本社会で十数年も隠棲することが可能なのか…まるで闇に消えてしまったかのようだ。

生まれも育ちも末期までも、その人生すべてが曖昧である。正体不明の詐欺師・吉田清治こと吉田雄兎。ハッキリと残っているのは、この男の捏造話で我が国が受けた大きな傷跡だけだ。




最後まで読んで頂き有り難うございます
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【side story】

吉田清治に李貞郁なる養子の息子がいた事実や高校の卒業名簿に死亡と記載されていた件は、別に新しい発見ではなく、秦郁彦氏の学術書『慰安婦と戦場の性』(初版H11年)に全て記されているものです。
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しかしながら、秦さんも異常な養子縁組に敢えて言及しないし、もちろん捏造派は完全スルー。忘れ去られている感もあるので、取り上げてみました。24歳の 独身男が20歳の朝鮮青年をいきなり養子として入籍するという状況は、どうしても理解不能です。しかも学校側の記録では一度死んでいるし…在日成り済まし 説がこれまでメジャーじゃなかったのは、不自然なレベルかと。

他にも当エントリは『慰安婦と戦場の性』を全面的に引用しています。慰安婦研究の重要文献と呼ばれるものですが、15年前の出版とあって、ホンダ騒動など新しめの動きは含まれていません。

その中、我らが山際澄夫さんが新著『すべては朝日新聞から始まった『慰安婦問題』」を上梓されました。

米国内の碑文設置策動からグレンデール以降の反撃ターン。朝日新聞がどう史実を歪め、今も延焼させているのか。そして、南鮮が隠すベトナムの悪行まで詳細に記述。慰安婦問題の新しいバイブルの誕生です。
 
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植村隆の記事は、歴史資料としてポルノ映画の原作を使っていた。次々に浮上する朝日新聞社の組織的捏造。「性奴隷大虐殺」のウソも84年の朝日記事が起源である疑いが濃厚になった。

産経新聞“河野談合”スクープの立役者・阿比留瑠比編集委員が、まだ中堅記者だった時代、村山富市元首相を取材する機会に恵まれた。平成12年のことで、当時、富市は詐欺基金の理事長だった。

「慰安婦の多くが日本人だったことはどう考えるのか。今後は、日本人も一時金の支給対象とするつもりはあるのか?」

単刀直入に阿比留さんは質問を投げ掛けた。重要な問題である。ところが、富市は「うっ」と唸り声を発しただけで、何も答えらなかった。更に、横にいた基金の理事は、その質問の取り消しを命令した。
▼特ア工作員として晩年過ごす富市2月(聯合)

「慰安婦問題とはそもそも、戦時下において女性の尊厳が踏みにじられたという、普遍的な人権問題だ」(毎日新聞8月7日付社説)

「しかし、国際社会から非難されているのは強制連行があったからではない」(神奈川新聞8月10日付社説)
▼米捏造碑が絵解きする“強制連行”

朝日新聞が突然営んだ吉田清治の“社葬”。そして強制連行をデマと認めた歴史的大転換は、反日メディアにパニック症状を引き起した。捏造派も、みんな判で押したように、こう絶叫する。

「吉田清治が怪しいことは、みんな昔から分かっていたことだ。問題の本質は、強制連行にあるのではない」
▼顔面引きつらせる捏造派8月10日(FNN)

醜い言い逃れだ。捏造問題が勃発した当初から、慰安婦の大半を占める日本人女性には光が当てられず、証言の中心は専ら朝鮮人だった。その理由について、捏造派は、こう強弁していたのである。

「朝鮮人女性は、日本人女性と違って強制連行された」

朝鮮人の自称慰安婦61人に500万円を贈呈した村山詐欺基金。日本人慰安婦にはビタ一文支払われていない。日本女性外しの背景にあったのは「強制連行の被害者」に補償するという誤った認識だった。
▼実在する慰安婦の笑顔が眩しい

慰安婦問題が、本当に戦時下の女性の人権をめぐる問題であれば、大半を占めた日本人女性を無視することは「民族差別」だ。そう指摘されたら、捏造派は富市と同じく「うっ」と言葉に詰まるだろう。

【朝日2013年の性奴隷宣伝】

2日間連続で掲載された朝日新聞の捏造居直り特集。紙面に漂うものは、タイムトリップ感だ。平成初頭、90年代前半の香り。この特集が、河野談話の前後に組まれたものだったとしても全く違和感がない。

朝日新聞の捏造居直り特集には「現在」という視点がないのだ。吉田清治の小説や植村隆の捏造宣伝が、今の国際社会にどのような影響を及ぼしているか、配慮も分析も言い訳すらもない。
▼植村が潜伏する北の邪教学園(file)

昨夏の米グレンデール市の捏造慰安婦騒動で、多くの日本人がショックを受けたのは「性奴隷」という特殊用語だった。しかし、充分なスペースを使った朝日の特集には、僅か2回しか登場しない。

しかも、その2回は共に、秦郁彦氏の寸評に出てきたものだ。朝日新聞は、否定的な意味での「性奴隷」表現を刈り取ったのである。昨年5月、米国務省の会見で質問を浴びせたのは、朝日新聞記者だった。

「あなたはこの問題をどう表現しますか?性奴隷ですか、慰安婦ですか?」
▼性奴隷宣伝企む「捏造隆」2号13年5月

挑発した朝日新聞の大島隆は、スポークスマンが「性奴隷」と定義することを期待していた。Q&Aは失敗に終わったが、このやり取りは、朝日内部で捏造キャンペーンが継続している証拠だ。

国家的な関与を仄めかす「従軍慰安婦」というプロパガンダ用語は、軍・官憲による組織的連行の証拠がなかった為、効力を失った。そこで捏造派が謀ったのが「性奴隷」への置き替えだった。
▼グレンデール碑のポエム「私は性奴隷」

捏造慰安婦の今日的な問題は、反日陣営が欧米に向け「性奴隷20万人の強制連行」という新たなデマを拡散していることだ。この「20万人」が「30万人」に増殖し、先月は「数十万人」に一挙倍増した。

「20万人」のネタ元は、吉見善明だ。適当なパラメータ値を用いた雑な推定数だが、朝日新聞が扇情的に報道したことによって、一気に拡散。とりわけ、米メディアでの汚染が激しい。
▼NYタイムズで紹介される吉見善明

しかし、驚くのはまだ早い。捏造派は「性奴隷20万人の大虐殺」を大宣伝しているのだ。数十万人の朝鮮人慰安婦が、我が軍の兵士にことごとく殺害されたと各地で吠え、非難のトーンを強めている…

「性奴隷問題はホロコーストと同じだ」
▼米ユニオンシティの捏造碑8月4日(聯合)

8月4日、米ニュージャージー州ユニオンシティに設置された捏造碑の除幕イベントで、市会議員は、そう決め付けた。吉田清治の小説を凌ぐ、荒唐無稽なデマだがは、反日鮮人が発案したものではない。

その悪しき起源もまた朝日新聞だった。

【朝日1984年の大虐殺暗示】

朝日新聞が捏造居直り特集で完全隠蔽した記事が発掘された。前のエントリで紹介した1984年11月2日付の朝日新聞夕刊。執筆したのは、捏造慰安婦の黒い先駆者・松井やよりだった。

82年の吉田清治マンセー記事と91年の植村捏造記事を結ぶミッシング・リンクの発見。ネットに拡散した「記事写真」がフェイクではないことは、記事検索サービス「聞蔵」データからも判明している。
▼朝日が隠蔽した問題記事(クリック拡大)

その記事には「私は挺身隊だった」と告白する自称女の偽装履歴に加え、“性奴隷大虐殺”に発展する悪質な捏造史が盛り込まれていた。松井やよりは、実にさりげなく、こう書く。

「八万人とも十万人ともいわれる慰安婦の多くは、生きて帰れなかった」

誰かに殺されたとは言っていないが、朝鮮人慰安婦の多くは生還叶わなかったと断定しているのだ。これは、捏造派にとって好都合な史実歪曲だった。
▼外国人騙す朝日幹部・松井(2000年)

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