『報道を斬る! (旧デイリー・メディアチェック)』(nifty ココログ)より転載させて頂きました。
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日本の産業革命世界遺産に韓国人が猛反発しているが、こちらの生き証人の発言は無視し続ける。
自ら徴用の経験がある崔 基鎬(チェ。ケイホ)氏より↓
*崔氏は民間レベルで日韓関係発展につとめ、サハリン在住韓国人の本国往来問題、原爆被爆者の治療援助、在日韓国人の法的地位向上のためにも尽力してきた学者である。
なぜ体験者の証言より、空理、空論を重んじるのか
他人の言動の揚げ足をとるばかるで、実行を伴わないのが、韓国、朝鮮の一般的学者像である。
ある土曜日の午後、我ら定年退職者たちは、孝昌(ヒョンチャン)公園の楼台に腰かけて、戦時中の徴用は、強制連行だったか否かを語り合った。
そこで私は、1940(昭和15)年、徴用に志願し、北海道の三菱手稲鉱業所で1年間経験したことを語り、実態は強制連行ではなく、自発的行為であったことを証言した。
ところが聞いていたK教授は疑問を発し、新聞で読んだ話は、私(崔氏)の経験とは、まったく正反対であるとし、徴用とは強制連行に他ならないとするのであった。
知人(崔氏)の実体験に基づく証言は無視し、実情をしらぬ人の新聞コメントは信用するというわけである。
北朝鮮の事情については、北朝鮮から亡命または、脱北した人がもっとも詳しいはずだが、今の韓国は、脱北者や黄長ヨプ氏のような北朝鮮から亡命した高官の話しは耳を傾けずに、左翼系の新聞、テレビや、北朝鮮の直接の宣伝を信用し呼応する。
命からがら生きて帰って来た漁夫、船長などの証言よりも、北朝鮮の広告、宣伝に耳を傾けるのが韓国の学者群である。
応募者が殺到した手稲鉱山の徴用
1939年度から施行された「国民徴用令」によって、朝鮮からの徴用も開始され、多くの朝鮮人が日本本土に渡ったが、その内容は次のようなものだった。
例えば、忠清南道(チュンチョンナムド)で実施された徴用の例でいうと、公州(コンジュ)、扶余(ブヨ)、論山(ノンサン)、青陽(チョンヤン)、舒川(ソチョン)などに、北海道札幌の三菱手稲鉱業所から、約1000名の鉱夫募集があった。
ところが、応募者数は約7000名にのぼったために、次のような採用考査が実施された。
第一次 1939年9月5日
第二次 1940年3月5日
場所 扶余邑事務所、及び各郡所在地の面(村)事務所
試験管 第1回佐藤典正(三菱手稲鉱業所責任者)
第2回金丸一郎、金相培(キンサンペ、扶余邑長)他補助役3名
こうして厳選された約1000名は、2組に分けられ、その中の1組は同年9月11日、論山出発、翌12日元山港着、輸送船(5000トン級)で翌日の夕刻函館港に着いた。
採用者(徴用者)たちは歓喜にあふれ、船内では全員歌舞にふけって、元気旺盛そのものであり、手稲鉱業所への就業後も、休祭日は自由に札幌市内に繰り出し、ショッピングはもとより銭函(ぜにばこ)湾での舟遊びまで楽しんだ。
多くの青年たちは、札幌の市内観光や大門通りの遊郭回りに憩いを求め、一部は淋病や梅毒に感染し、中には局部の切開手術を受ける者もあって、監督機関では性病対策に苦慮して衛星サックを配るなどした(休暇中の公傷は全額支給)。
このような徴用の光景は、1945年まで毎年見られた。
中略
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これでも、強制労働といいはるおつもりですか?