日本とトルコとの友好の歴史について度々話題になるようになって喜ばしいことです。
ロシア機撃墜事件を機にロシアとトルコ確執の歴史やトルコのイスラム世界での位置についての論述も出始めました。
でもトルコの人達が根っから日本好きなのに応えて、我々日本人も「トルコ大好き」でいいんじゃないでしょうか。
互いの国民の命を救った史実を描いた両国の合作映画「海難1890」が5日から公開されます。
そしてまた更にトルコ航空は「KUSHIMOTO」と名付けた飛行機を当時の塗装に戻して就航させてくれました。
その件の産経WEST記事と、もうひとつ産経記者がトルコへ個人旅行した体験記事も併せて貼っておきます。
日本とトルコの友好映画を記念した「KUSHIMOTO号」がイスタンブール-関西線に就航
日本とトルコが互いの国民の命を救った史実を描いた両国の合作映画「海難1890」が5日から公開されるのを記念し、ターキッシュエアラインズの特別機「KUSHIMOTO」号がイスタンブール-関西線に就航。3日、関西国際空港で出発式が行われた。
映画は、和歌山県串本町沖で起きた明治23年のトルコ軍艦「エルトゥールル号」の遭難事故で生存者を住民が献身的に介抱した史実と、イラン・イラク戦争中の昭和60年、トルコ政府がテヘラン空港に取り残された邦人を同社の航空機で救出したエピソードを描いている。
特別機は当時の機体のデザインを再現。機内には串本町が贈呈した「日本・トルコ友好の翼」と記されたプレートが設置された。
出発式で同社のジェム・アルデミール大阪支社長は「これからも両国の架け橋になりたい」とあいさつ。串本町の田嶋勝正町長は「命名は光栄なこと。友好の発祥の地として関係発展に貢献したい」と述べた。
出発式は特別機に搭乗する旅行客らが見守る中で行われた。神奈川県横須賀市の主婦、酒井まり子さん(65)は「世界で憎み合うニュースが多い今こそ、こういう話が広まってほしい」と話していた。
「親日」トルコの真実 明治天皇、料理…文明の交わる国に足りぬのは「日本からの友情」
長期休暇をとって、せっかくトルコおひとりさまツアーの料金をすでに払い込んだというのに、なんてことをするんだ…。
旅立つ1カ月ほど前に、アンカラの町で95人も亡くなるテロが起きたときには、さすがに少し考えた。
旅のさなかには「G20」もトルコで開催されるし、標的にされて危ないかもしれんな。でも、まあその分、警備も厳重だろうから、大丈夫じゃないか? などと、あれこれ思いを巡らせていたわけである。
もちろん、トルコへの旅を話していた人たちからも、「ほんとうに行くんですか?」「生きて帰ってください」などと、まるで出征兵士を見送るような言葉まで頂戴(ちょうだい)する始末。
しかし、それでも最終的に東と西の文明が交わるところや、さまざまな奇観が見たいという欲求をおさえることはできなかった。
そもそも、あの過激組織「イスラム国」の強いシリアと国境を接しているのだから、いつ何時、日本政府から渡航禁止のお触れが出るかもしれん、などと変な気を回した妄想までしてしまい、この機を逃してはならない、と意を決したのである。
11月10日に関空を発(た)ち、イスタンブールに入って、トロイ、エフェソスといった遺跡を回り、世界遺産の石灰棚でおなじみパムッカレ、洞窟(どうくつ)都市のカッパドキアをめぐってイスタンブールに戻ったあと、19日に帰国するという、おひとりさまばかり16人が参加するツアーだった。
結果的には、ものすごく楽しい旅になったが、そうした話はおき、バスにゆられた長い旅で、さまざまな人に会い、考えたこともたくさんあった。
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「なにが魅力といって、とにかく“ひと”がいいんですよ。トルコの人たち」
添乗員の藤本敦子さん(50)はいう。彼女は何度もトルコにホームステイした経験を持っている。話せば長くなるが、その都度、トルコの人たちの情に触れ、ますます好きになっていくのだという。
「欧州か米国か…わたしたち、どの旅に行くのかわからないんですね。でも、希望はいつもトルコ」
最初にこんな話を聞いたのだが、ほんとうかよ、と少しばかり疑った。
確かに、親日的な国だといわれていることは知っている。5日から上映の「海難1890」として映画化もされた、エルトゥールル号遭難事件が、両国の大きな架け橋になっているのだということも。1890(明治23)年に和歌山県串本の沖合で強風にあおられたトルコ(当時はオスマン帝国)の軍艦が岩礁に激突、600人以上が海に投げ出されるという事故が起きたとき、近隣住民が総出で69人の生存者救護に当たり、さらに日本は海軍の巡洋艦で丁重に送るという礼をつくした。
ただ、その後日談は今度の旅のトルコ人の通訳さんたちから聞いて知った。
1985(昭和60)年、イラン・イラク戦争が激化するなか、イラクのフセイン大統領が、イラン上空を飛ぶ飛行機を48時間後にはすべて打ち落とす、とイラン空爆を通告したとき、トルコ航空がテヘランへと飛行機を飛ばした。イランの日本企業駐在員やその家族たちを救出するためだった。250人もの邦人の命を、トルコは救ってくれた。100年も前の恩義に報いるために…。
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「トルコから日本へ…片思いされてる」
イスタンブールのグランバザール(古い市場)では2、3の店を除いて、どこでも日本語で話しかけられた(2、3の店では「ニーハオ」とあいさつされた)。黒いストールと黒いズボンだったせいだろうか、「ヤクザ」などと声をかけられることもあったが、彼らはとりあえず知っている日本語の単語をフルに使って、なんとかわれわれとコミュニケーションをとろうとしてくるのである。
カッパドキアでは、洞窟のなかに住んでいる人たちの家庭を訪問した。飛び込みで訪れたのだが、彼らは快く迎えいれてくれたうえ、1時間近く洞窟のなかの大広間で、その家族たちと歓談した。
ボアズカレからアンカラに行く途中に立ち寄ったガソリンスタンドでは、若者が「チャイ」(紅茶)を飲ませてくれた。田舎の若者には、外国人が珍しいそうで「なんとかしてわれわれと、からみたいんですよ、彼ら」(藤本さん)。だから、こっちも「一緒に写真を撮ろう」と肩を組むと、にこにこと笑って応じてくれた。
日を重ねるにつれ、藤本さんのいうトルコ人の善良さや好意がわかってくる。
「わたしたち日本人のトルコへの思いと、トルコの人たちのわたしたち日本への思いとではずいぶん違うと思うんですよ。わたしたちってすごいトルコの人から片思いされてるっていうのか…そんな風に感じるんです」
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バスのなかでトルコ人通訳さんの説明を聞くともなく聞いていて、この国のかたちが少しずつ見えてきた。日本の倍ほどの国土に7500万人あまりが住む。食料自給率は100%を超える農業の盛んな国だそうだ。世界三大料理のひとつといわれるトルコ料理は、そうした国土にはぐくまれている。
そのアジアの西の端の国で、東の端の国、日本の人気が高いのは、エルトゥールル号事件だけのせいではないらしい。トルコ共和国の建国の父、初代大統領のムスタファ・ケマル・アタチュルク(1881~1938年)が革命を起したとき、明治維新をのちの国家整備の手本とした、というのである。
いま、トルコの街のあちこちで、尊崇の対象としてのアタチュルクの肖像を見かけるが、彼が机に置いていたのは、明治天皇の肖像だったそうだ。
仲のよろしくない隣国の大国ロシアを、アジアの小国である日本が、日露戦争で破ったことも親日に影響しているといわれる。
もちろん、アジアと欧州を分かつボスポラス海峡をつなぐ世界一深い海底トンネルや第2大橋の建設に日本が援助をした、という最近のできごとも大きいのだろうが、われわれが彼らに好意をもって迎えられる本当の理由は結局、明治の人々の営みの偉大さにあるのではないか。
出発前は、ただの観光旅行のつもりだった。それが、いつしか本当にこの国に魅了されてしまった不思議を感じながら、旅の最後の日、アジアと欧州のはざま、ボスポラス海峡を漂う船の上で、国の友誼(ゆうぎ)というものを考えていた。
われわれはこの国の人々がこんなにも抱いてくれる熱烈な思いに本当にこたえるに足る国民なのだろうか。そして、その思いにこたえるためにわれわれにできることは何か、ということを…。