いろいろなインタビューやメディアでは、主役のタケオ役の ナカヤマニコラスさんは今まであまり日系であることを意識していなかったがこの機会にいろいろな日本のことを覚えるだけではなく再認識することになったとのこと、タカシマホルヘさんは自分の親がアルゼンチンに移住してきての葛藤、家族を養うこと、子供を育てること、そしていかに現地の生活にとけ込み、とけ込まないか、を再考させられる機会になったと語っています。それが「私たちの気持ち」の一つをうまく描いているそうです。 
 
 
明治27年、日清戦争がはじまると大国である清国を相手に奮闘する小さな島国日本の姿に共感と熱いまなざしとを向けていた国がありました。日本とは地球の反対にあるアルゼンチンでした。
 
今では「大航海時代」と教えられる15世紀の本当の姿は、南米にスペインやポルトガルがやって来て、先住民を虐殺し、奴隷にし、金銀を奪い、西欧は益々栄える一方で、南米にとっては悲劇の始まりでもありました。
 
そのアルゼンチンはかつてスペインの支配にありましたが、1816年に独立しました。
しかし、アルゼンチンはヨーロッパやアメリカの圧力のために常に緊張した状況が続いていましたが、
決して屈することなく独立を堅持していました。
東洋の小国であった日本が大国の清国と堂々と戦う姿を見て勇気づけられたのでした。

当時のアルゼンチンの新聞にはこう書かれていました。
 
「日本は10倍もの人口を持つ大国に挑戦するという、これ以上望むべきもない勇猛さと剛胆さを体現しているのであるから、我々は清国より日本に共鳴せずにはいられない」
 
さらに日本の国歌・君が代についてこう書いています
 
「その荘厳な旋律は極東の穏やかな国民の気質をよく表している。またその一風変わったハーモニーは異国情緒を感じさせるに十分である」と絶賛しました。
 
その後、日清戦争は日本が勝利し、アルゼンチンは「これからは日本を手本にすべきである」と日本の研究をはじめ、明治31年には日亜修好通商航海条約を締結します。

 
そのアルゼンチンが最も日本に関心を高めたのは日露戦争でした。
「なぜ日本はロシアに勝てたのか」、アルゼンチンは分析をはじめました。
 
日本は東洋にあって西洋文明の優れた部分を取入れ、また他方では自国の伝統を遵守し、継承している国である。そして、その根源は聖徳太子の憲法十七条にある。
 
日本ではすでに604年に憲法が制定され、その憲法には「和をもって貴しとせよ。 群卿百寮、礼をもって本とせよ。 それ民を治める本なり」と定めている。
それに対して白人は傲慢で無礼で、暴力的で威圧的に人間を統治している。
 
日本の精神は「道徳」によって社会を律し、国家への「忠」、親への「孝」、夫婦の「和」、兄弟の「愛」が宗教人としてではなく社会人、家庭人として義務とされている。
 
特に高く評価するのは日露開戦の詔勅と同時に出された文部大臣訓令の「日露開戦につき戦時教育上の心得に関すること」である。

これは開戦になる前夜、「ロシア憎し」と言う声が日本各地に高まっており、大人は“ロスケ”と呼び、子供達もそう呼ぶようになってきた。
 
こうした状況で文部省は全国の小学校に「敵といえども屈辱することなかれ」と戒める訓令をだした。

日本という国はこういう倫理性のある国柄である。・・・
 
 
アルゼンチンの日本分析の最後にはこう締めくくられました
 
「日本国民は見識を持ち、勤勉かつ壮健である。彼らの中には祖国とその偉大な人物への崇拝心が混在している。戦争に勝利したのは東郷でも大山でもない。

戦争に勝つには優秀な将軍だけでは十分ではなく、優れた軍隊が必要なのであり、そして優れた軍隊をもつには堅牢に建設された国家の存在が不可欠なのである。

日本という国は国民全体の資質が極めて高く、それが日本の国家の基盤である」と指摘しています。





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