カマちゃん様のブログ『美し国(うましくに)』より転載させて頂きました。
(以下、転載記事)
海の墓標
対馬丸
良識ある日本の皆様におかれましては、沖縄地方が梅雨明けしたとみられるとの発表があった26日、畏くも天皇、皇后両陛下におかせられましては、特別機で沖縄に入られた。大東亜戦争中に沖縄から長崎へ向かう途中、米潜水艦に撃沈された学童疎開船「対馬丸」の犠牲者を慰霊の旅路。長年にわたってこの悲劇に心を寄せてられてこられた両陛下は、先々で深く、静かに拝礼をささげ、遺族、生存者に寄り添われました。
両陛下や生存者、遺族の方々は悲惨な過去を風化させず、後世へと語り継ぎ、犠牲となられた御霊の慰霊に尽力されています。
亡くなられた御霊のいさおしは、海の平和を守る礎として、凛として万世に光り輝くでしょう。
墓標なき海深く眠る御霊よ、波静かなれ永久にと祈ります。
墓標なき海深く眠る御霊よ、波静かなれ永久にと祈ります。
昭和19年8月21日、18時35分那覇港から鹿児島に向けて疎開児童767名引率訓導・引率世話人28名を含む一般の疎開者他1661名を乗せ対馬丸(6,754t)が出航しました。
誤った情報を流す方がいますが、対馬丸は学童疎開船ではなく一般疎開船です。「悲しむべきことに、学童疎開中の子供たちを多く載せていた」というのが事実です。
翌22日22時15分奄美大島沖合いで米潜水艦の魚雷攻撃を受け約10分後に海底に沈んでしまったのです。
1484名の命が失われました。救助されたのはたった177名(学童は59名)でした。
昭和19年7月7日、サイパン玉砕の日の深夜、県知事あてに緊急指令の電報が届きました。
沖縄から老幼婦女子を計10万人本土と台湾に引き揚げさせよ という趣旨のものであった。昭和18年5月以来既に嘉義丸・湖南丸・台中丸・富山丸などが那覇→鹿児島間の海上で米潜水艦の攻撃を受け
て沈没していることは公然の秘密であり、危険は予想されたが刻々と迫る戦況の悪化は一刻の猶予もなく、米軍の沖縄上陸は時間の問題でした。
疎開の輸送は軍艦で という親達の願いもありましたが、当時の帝国海軍にその余力がなかったのです。那覇港には貨物船3隻が子ども達を待っていた。和浦丸・暁空丸・対馬丸の3隻で、対馬丸はその中でも最も大きい船であり駆逐艦と砲艦に守られての出航でした。
翌22日22時15分奄美大島沖合いで米潜水艦の魚雷攻撃を受け約10分後に海底に沈んでしまったのです。
1484名の命が失われました。救助されたのはたった177名(学童は59名)でした。
昭和19年7月7日、サイパン玉砕の日の深夜、県知事あてに緊急指令の電報が届きました。
沖縄から老幼婦女子を計10万人本土と台湾に引き揚げさせよ という趣旨のものであった。昭和18年5月以来既に嘉義丸・湖南丸・台中丸・富山丸などが那覇→鹿児島間の海上で米潜水艦の攻撃を受け
て沈没していることは公然の秘密であり、危険は予想されたが刻々と迫る戦況の悪化は一刻の猶予もなく、米軍の沖縄上陸は時間の問題でした。
疎開の輸送は軍艦で という親達の願いもありましたが、当時の帝国海軍にその余力がなかったのです。那覇港には貨物船3隻が子ども達を待っていた。和浦丸・暁空丸・対馬丸の3隻で、対馬丸はその中でも最も大きい船であり駆逐艦と砲艦に守られての出航でした。
護衛艦は、対馬丸以外に、和浦丸・暁空丸の二隻を同時に護衛していましたが、危険海域から護衛船が二隻の輸送船を連れて全速力で立ち去ったのは、悲しいことですが、二次災害を防ぐためでした。
因みに沖縄からの疎開船は昭和19年7月から翌20年3月まで178隻 人員にして約7万人が疎開、犠牲になったのは 対馬丸のみでした。「対馬丸」が撃沈された事件については緘口令が布かれたが、疎開先から来るはずの手紙がない事などから、たちまち皆の知るところとなりました。
因みに沖縄からの疎開船は昭和19年7月から翌20年3月まで178隻 人員にして約7万人が疎開、犠牲になったのは 対馬丸のみでした。「対馬丸」が撃沈された事件については緘口令が布かれたが、疎開先から来るはずの手紙がない事などから、たちまち皆の知るところとなりました。
「対馬丸」を撃沈した「ボーフィン」は1981年(昭和56年)以来、「真珠湾攻撃の復讐者」として、真珠湾の戦艦「アリゾナ」の近辺にボーフィン・サブマリンミュージアム&パークとして展示されています。
対馬丸の犠牲者の方々に関しては軍属扱いということで叙勲、御遺族には年金が支払われています。しかし、これは一般の空襲などで亡くなった方には支払われていません。
同じような事件に、泰東丸他数隻がソ連に撃沈された三船殉難事件があります。此方はポツダム宣言受諾後の引き揚げ船であり明らかな違法行為でした。
対馬丸事件よりも犠牲者数が多く、また三船殉難事件が起きたのは、沖縄ではなく、北海道でした。
戦時中、病人子供を載せた輸送船(鉄道やトラックなども含む護送手段全般)には、白地に赤十字を大きく描き目印にすることになっており、それを撃つことは国際法に違反しました。
戦時中、病人子供を載せた輸送船(鉄道やトラックなども含む護送手段全般)には、白地に赤十字を大きく描き目印にすることになっており、それを撃つことは国際法に違反しました。
しかし、米国はこれをも撃沈したのです。
大東亜戦争のさなか、米国政府は日本軍が占領していた南方諸地域に抑留
されている連合軍将兵と民間人に対し、慰問袋を配布して欲しいとの申し入れをして来たのです。
わが国政府は人道上の見地よりこの申し入れを受け、大東亜省事務次官を団長とする使節団を派遣する事を決定、日本郵船所有の阿波丸をこの目的に利用することとし、船は長崎を出港、委託された慰問袋を荷下しつつ南方諸地
域を巡港しました。
復路の阿波丸は 緑十字船 として連合軍から航海の安全を保障され、安導券 を交付されていたので戦争に直接関係のない人々(民間人及び婦女子を含む)と沢山の軍需物資を乗せて敦賀港を目指し船脚を速めつつ帰路にさし
かかっていた。
時に昭和20年4月1日夜半、突如米国の潜水艦クイン・フイッシュ号より魚雷4発が発射され、船体のほぼ中央に命中、「乗船者2130人、船員147人の計2277人」の尊い人命は積荷や船体もろとも一瞬にして海底のもくずと消えました。
されている連合軍将兵と民間人に対し、慰問袋を配布して欲しいとの申し入れをして来たのです。
わが国政府は人道上の見地よりこの申し入れを受け、大東亜省事務次官を団長とする使節団を派遣する事を決定、日本郵船所有の阿波丸をこの目的に利用することとし、船は長崎を出港、委託された慰問袋を荷下しつつ南方諸地
域を巡港しました。
復路の阿波丸は 緑十字船 として連合軍から航海の安全を保障され、安導券 を交付されていたので戦争に直接関係のない人々(民間人及び婦女子を含む)と沢山の軍需物資を乗せて敦賀港を目指し船脚を速めつつ帰路にさし
かかっていた。
時に昭和20年4月1日夜半、突如米国の潜水艦クイン・フイッシュ号より魚雷4発が発射され、船体のほぼ中央に命中、「乗船者2130人、船員147人の計2277人」の尊い人命は積荷や船体もろとも一瞬にして海底のもくずと消えました。
救助された唯一人の生存者は今は故人となられていますが、タイタニック号を上回る世界最大級の犠牲者を出した大型貨客船を狙ったものでした。
日本政府は米国に対し、その不法を抗議すると共に謝罪と賠償を請求すべく中立国のスイスを通じて交渉を開始しましたたが、4ヶ月後の8月15日、日本は降伏するに立ち至り、国も国民も呆然自失の状態に陥ったのです。
月日がたつにつれて次第に復興の兆しも見え始めて来た昭和24年の第5国会(吉田内閣)に於いて、日本の戦後復興に多大の協力を惜しまなかった米国に対し、感謝の念を表す手段として、阿波丸事件賠償請求権を放棄する案が与党より上堤され、絶対多数で決議されました。
遺族に対しては人命1人につき僅か7万円の見舞金を一方的に支給するのみで、この問題は終了したとされています。
月日がたつにつれて次第に復興の兆しも見え始めて来た昭和24年の第5国会(吉田内閣)に於いて、日本の戦後復興に多大の協力を惜しまなかった米国に対し、感謝の念を表す手段として、阿波丸事件賠償請求権を放棄する案が与党より上堤され、絶対多数で決議されました。
遺族に対しては人命1人につき僅か7万円の見舞金を一方的に支給するのみで、この問題は終了したとされています。
日本は四方(よも)を海に囲まれた海洋国です。その上資源の少ない国土ですので、食料品から石油燃料、 鉄の原料など、さまざまな物資を外国から輸入して経済を維持しています。
大東亜戦争は当時のわが国の総力を挙げた戦いでした。
このためたくさんの船と人が、戦争の犠牲になりました。
沈んだ日本の商船は7240隻(官・民一般汽船3575隻、機帆船2070隻、漁船1595隻)といわれ、船員約6万人が犠牲になりました。
これに軍艦・軍人・軍属を併せると相当な犠牲になります。
「対馬丸」を沈めた「ボーフィン」は「真珠湾攻撃の復讐者」とされているようですが、これだけ見ても、米国が嘘だらけの歴史を広めた理由が良く分かります。
事ある毎に「真珠湾攻撃を忘れるな」を叫びました。
宣戦布告前のわが国の奇襲をなじったものです。しかし、近代戦争で宣戦布告からはじまった戦争など数例しかなく、米国が始めた戦争に至っては宣戦布告など行われていません。しかも、「真珠湾攻撃を忘れるな」は東京大空襲、原爆投下の正当性にも利用されました。
わが国は敗戦後の占領下で「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」によって贖罪意識を徹底して植え付けられました。
政府見解として連合国の悪行を検証することもなく、検証することも許されず今日に至っています。
昨今、世界で日本、日本人は賞賛されています。しかし、戦禍に散った先人も同じ日本人であり、我々の祖先なのです。汚名を着せられたままでよいのでしょうか?
筆者は隣国のようにねつ造された歴史を叫べとは言いません。
ありのままの歴史を学び、真の日本人でほしいと願うばかりです。
墓標なき海深く眠る御霊に、恥ずることなき「勲し(いさおし)」のこころを継承したいものです。