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平沼赳夫氏が「平沼騏一郎」を語る 大切にしたのは「国体」「右翼の総帥」は右翼や軍部ににらまれた

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次世代の党の党首、平沼赳夫先生のインタビュー記事です。
石原慎太郎氏や橋下などアクの強い人が目ってしまうのに比べて、地味な個性で損していますが、実にまっとうな政治感覚で、また演説は分かり易くびしっと決まります。
 
平沼麒一郎(きいちろう)首相(1939年1月 -1939年月末)の孫として生まれ、のちに養子になっておられます。 
政界ウオッチャーの方も、近・現代史ファンの方もどうぞ。      
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                           平沼麒一郎首相
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【昭和の首相】
平沼赳夫氏が「平沼騏一郎」を語る 大切にしたのは「国体」「右翼の総帥」は右翼や軍部ににらまれた

2014.9.5 05:00(産経)安倍首相
 
イメージ 2 
平沼赳夫氏
 --首相としての平沼騏一郎はどういう人だったと聞いているか
 
 「マスコミ関係からは『右翼の総帥』『ファッショの首魁』と言われていたし、元老だった西園寺公望からは『迷信家』『神がかり』と言われた。だけど騏一郎は、日本の皇室を非常に大切にする、皇室中心の日本を作っていきたい、というのが信条だった」
 「首相としては短い期間だった。退陣した理由は『独ソ不可侵条約』だ。ドイツとソ連が不可侵条約を結ぶなんて考えられなかった。ところが、そうなってしまった」
 「昔の政治家の考え方というのは、今のような国民主権の時代じゃないから、天皇から政治をお預かりしていたという価値観なんだね。まさかドイツとソ連が不可侵条約を結ぶとは思わなかった、政治家として見通しを自分は誤った、これは自分の責任だから政権を返上します、ということだったんだ。こういうのを、欧州で教育を受けた新しい物好きの西園寺に言わせると『迷信家』となったんでしょうね」
 
 
 --退陣後の騏一郎は、日独伊の三国同盟に反対し、英米寄りのスタンスをとっていた
 
 「『ヒトラーもムソリーニも国家社会主義で、ソ連の赤とそんなに距たりはない。米英とは仲良くしていかなければいかん』と。独裁政治は天皇中心の国には合わない、ファシズムには圧倒的に反対だったんだ。当時、グルーという駐日米大使に働き掛けて、絶対に戦争にしてはいけないという努力をした。それが軍に漏れ、『平沼は鬼畜米英に内通している』となった」
 
 「昭和16年8月、同郷から来たと自宅を訪ねた右翼に、首から上にかけて5発の拳銃を撃ち込まれたわけだ。騏一郎は、撃った奴を玄関まで追っかけ、駆けつけた警官に、検事らしく『捕縛しろ』と身振りで示したようだ。隣に住んでいた父母が『パン、パン』というピストルの音を聞いて、すっ飛んで行ったら、騏一郎はそのときには自分で居間に戻り、床の間の柱に寄りかかって立っていたんだって。家人が寝かせようとすると、手振りで『寝ない』とやったそうだ。近所の医者が来たら、騏一郎が血まみれだから驚きのあまりに治療も何もできない。何とか4発は摘出できたが、最後の1発は巣鴨(拘置所)に入ってから出てきた」
 「後に『なんで寝なかったの?』と聞いたら、『寝ると、撃たれたところと心臓が水平になるから出血多量になる』と。裁判官出身だから、そこのところが分かったんだな。『右翼の総帥』と言われた人が、そういう連中に撃たれたわけだ」
 「東條英機内閣のときには、東條を辞めさせようと、重臣が平沼邸によく集まった。近衛文麿元首相とかもね。それが東條側に漏れて、『平沼逮捕』という話まで出たという」
 
 
 --終戦の日も大変なことになった
 
 「昭和20年8月15日の前に『御前会議』が何度も開かれた。騏一郎は当時、枢密院議長をしていて、鈴木貫太郎首相から『どうしても入ってくれ』と言われ、天皇陛下(昭和天皇)のお許しもあって御前会議に参加した。ポツダム宣言を受諾すべしとの立場だった。主戦論を唱える阿南惟幾陸相や梅津美治郎参謀総長や豊田副武軍令部総長に対し、陛下の前で40分くらい『あなたたちは本土決戦をしようとしているが、一体どういう備えをしているんだ』などと言った。検事の口調で。彼らはシドロモドロで答えられなかったんだ」
 
 「出席者は主戦派と受諾派で二分された。それで、鈴木首相が頃合いを見計らって、『本当は臣下のわれわれが多数決で決断しなければいけない。甚だ異例のことではあるが、陛下の御聖断を仰ぐ』と陛下の前にわざわざ進み出て申し上げられたそうだ。そして、陛下の終戦の御聖断が下った。軍部の一部にしてみれば『鈴木と平沼が余計なことをした。殺せ』ということになったわけだ」
 「8月15日の早朝、一部の過激派がトラック2台に機関銃3丁載せて家を襲ってきた。騏一郎は別棟に逃れていて、紙一重の差で助かるわけだが、6歳だった私は襲撃隊の一人に『平沼騏一郎はどこだ』と銃口を突きつけられた。襲撃隊は騏一郎を見つけられないから全室に石油をまいてあっという間に空襲を逃れていた家を燃やしてしまったんだ」
 「こういう連中に襲われた騏一郎がどうして右翼やファッショなのか、と言いたいね。天皇中心の2千年来続いてきたこの国柄を大切にしていきたいという価値観を持っていただけのことであった」
 
 
 --西園寺にはいろいろと妨害されている
 
 「大正時代から騏一郎に組閣の大命が降下されるといわれていたが、元老だった西園寺が全部潰したという。枢密院議長もなかなかさせなかった。西園寺は近衛に『あんな者(騏一郎)を陛下の側近にしてはいけない』と言ったという。西園寺は欧米礼賛の開明主義者だから、天皇というのは『機関説』くらいにしか考えていなかったんだろう。騏一郎は『天皇は統治の主体であって、機関と唱えるのは乱臣賊子だ』と批判していた」
 
 --騏一郎がいなければあの時の日本はどうなっていたか 
 
 「最後の最後は陛下の御聖断だが、終戦の流れにならなかったら、このまま日本本土は間違いなく戦場になり、日本は本当になくなっていたんじゃないかなと思う」
 「ただ騏一郎も、御前会議の後では国体を大切にするよう主張した。ポツダム宣言の英文に『subject to』というのがあった。外務省は『制限下』と訳したが、本当は『隷属』ではないのかと論争になった。騏一郎は『陛下をちゃんと守れるか』と、しつこいほどGHQ(連合国軍総司令部)に問い直させるよう求めた。陛下が戦犯にされて、GHQの好きなように処刑でもされたらたまらないと思ったんだよ」
 
 
 --「祖父」としての騏一郎はどうだったか
 
 「私の母が騏一郎の兄で早稲田大学長をやった平沼淑郎(よしろう)の孫娘だった。子供がなかった騏一郎は、母を孫のようにかわいがった。それで、一家そろって騏一郎の養子になった」
 
 
 --騏一郎は独身だったと聞いているが
 
 「正確に言うと、1回は結婚していた。しかし、騏一郎が肺病になった。昔は、肺病は不治の病というので、女性の父親が心配の余り娘を引き取ってしまった。騏一郎は奇跡的に治り、司法省で徐々に活躍していた。すると、復縁の話が出てきた。騏一郎は、その女性が嫌いだったわけではなかった。しかし『覆水は盆に返らず』と言ったらしい。そのまま、独身を通した」
 
 「終戦までは西大久保(現在の新宿区歌舞伎町)の家に一緒に住んでいた。割合に大きな木造の家だったが、着物姿で庭に面した長い廊下を行ったり来たりしていた。『おじいちゃんは、なんで廊下を行ったり来たり、途中で立ち止まって天を仰いだりするのかな』と子供心には思っていたが、今から思うと、あれは国の行く末について、この国はどうなる、どうしたらいいかなどと考えていたんだろうな」
 「それと、謡曲が趣味だった。終戦直後、『鞍馬天狗』という謡曲を私と姉に一緒に教えてくれた。私より2つ上の姉は結構うまく謡った。私はただ黄色い声を張り上げて謡ったら、騏一郎がこう言ったのを覚えているよ。『赳夫のうたい方の方が子供らしくてよい』と」
 「それに、平沼家は津山藩松平家の家臣で、日置流の弓術指南番だった。騏一郎もよく庭で弓を引いていたね。今でも、その弓は残っている。不思議なことに、次男が学習院大学に入ったら、先祖のことについて何も言っていないのに弓道部に入った。学習院の弓道部も日置流なんだ」
 
 
 --終戦から半年過ぎると、騏一郎は「A級戦犯」として巣鴨拘置所に送られた
 
 「よく母と巣鴨へ面会に行った。GHQの憲兵隊長でケンワージーという人がA級戦犯の世話をしていた。騏一郎はものすごく流暢(りゅうちょう)な英語で話していたね。留学していたからだな」
 
 「私は小さいときから政治家になろうと思っていたが、騏一郎は『政治家になれ』とは一言も言わなかった。ただ、面会のときに騏一郎が言ったのは『小学校は公立に行け。私立に行っちゃいけない』と。それで、私は渋谷区立西原小学校に通った。私立よりも公立の方がいろいろな層の家族の人たちと接することができる、そういう学校の雰囲気の中で育つべきだ、ということだったのだろう」
 
 
 --裁判での騏一郎は
 
 「非常に寡黙な人だった。巣鴨に連れて行かれるときも、私の母に向かって『俺は何も言わないよ』と言っていた。騏一郎が守りたかったのは陛下だ。戦犯になる人がいなかったら陛下にその累が及ぶかもしれない、だから誰かが戦犯にならなければいけないと。自分がああした、こうしたというようなことは一切言わなかった」
 「長い間法曹界にいたから、いかに東京裁判が押しつけだっていう思いもあっただろう。そういったところが、男として潔いではないか。私が郵政民営化に最後まで反対したのは、騏一郎のそういう影響があると思う」
 
 
 --騏一郎の最期は
 
 「昭和27年になり、GHQの管理も緩んで、巣鴨から慶応病院の5階に移してくれた。いろんな人が面会に来た。夏の暑い盛りで、ウナギを持ってきた人がいたり、小さいときの好物だったというハタンキョウ(スモモの一種)を持ってきた人がいたりで。80歳過ぎた老人がいろいろなものを食べて、おなかを壊したんだね。たんがのどにつかえたのも覚えている。騏一郎のために、部屋が窮屈なるくらいのたんを吸い取る機械を持ってきて、医者がじゅうじゅう取っていた」
 
 「見舞いに来た私が窓際に行くと『落ちるから危ない。こっち来なさい』と。落ちるわけはないのに、年寄りには心配だったんだろうなあ」
 -産経新聞(当時の題字は「産業経済新聞」)の訃報記事は、首相経験者なのに社会面のベタ扱いだった
 「まだ戦犯から解けていないときに死んだわけだから。ただ、うれしかったのは天皇、皇后両陛下からのお供えがあり、勅使がお参りに来られたことだ。昭和天皇も終戦の御前会議のことをよくご存じだったのではないかな」
 
 
 --騏一郎は靖国神社に合祀されている。今年の終戦の日も参拝したが、参拝のたびに騏一郎を意識するか
 
 「それはしていない。戦争に従事した英霊に対して『ありがとうございます』という思いしかない。騏一郎のことは頭に浮かばないなあ。というのも、騏一郎は文官だった。A級戦犯として裁かれ、受刑中に亡くなった『公務死』ということで合祀された。母が『何でおじいさんは靖国に入らなきゃいけないのか』と言っていたくらいだ」
 「しかし、神道の見識からすると、合祀した人は分祀できない。だから、自然体でいいじゃないかと考えている。私のところに来て、分祀論を盛んに言う人もいるが、それには乗らないことにしている」

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