なでしこりん様のブログ(言論統制のアメーバブログ)より転載させて頂きました。
このブログ(不死鳥復活サイト)のURL: http://ameblo.jp/nadesikorin-fight/
(以下、転載記事 ↓のタイトルをクリックして元記事に行けます)
インド国民は大義のために生命を捧げた勇敢な日本将兵への恩義を末代にいたるまで決して忘れません。
2016-01-03 17:05
日本の若者たちよ、事実を学んで日本の歴史に誇りを持とうよ!
欧米列強の植民地支配体制を打ち破ったのは日本人という事実!
なでしこりんです。今日の東京は春を思わせる陽気なんです。私は今朝は靖国神社に参拝して来ました。今日はお着物を召した方が多かったですよ。やはり日本人は着物ですね。昨年は、韓国人による爆弾テロ未遂事件がありましたが、参拝客には影響はなさそう。若い団体さんもたくさんおいでになっておられました。
私は本殿に参拝した後は必ず、遊就館の左側にある「パール判事の顕彰碑」にもお参りすることにしています。みなさまはインド人のパール判事のことはご存知ですか?
ラダ・ビノード・パール(Radhabinod Pal 1886年1月27日 ~1967年1月10日) 極東国際軍事裁判(東京裁判 1946年~1948年)において連合国が派遣した判事の一人で、判事全員一致の有罪判決を目指す動きに反対し、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)で知られる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB
1946年(昭和21年)の時点ではインド独立していませんから、まだイギリスの殖民地でした。そういう状況の中で、宗主国イギリスのイエスマンになることなく、「事後法をもって裁くことは国際法に反する」と主張されたのは立派としか言いようがありません。もし私がパール判事の立場なら、圧倒的多数派の連合国に迎合していたでしょう。私たち日本人は、パール判事の勇気を忘れてはいけません。
極東国際軍事裁判については、自民党の中から「再検証すべき」という声が上がっているのは歓迎すべきことです。考えてみれば、事例が起こってから法律を作るということを認めれば、全ての人を犯罪者にすることができます。「法で裁く」ということは、事例が起こった時点にすでにある「現行の法律で裁くべき」というのが当然のはずなんですが、極東国際軍事裁判(東京裁判)はそういう原則を逸脱しているんですね。要は「報復ありき」が真っ先にあるから、そのための「平和に対する罪」と「人道に対する罪」を捏造したんです。日本人はこの問題を忘れてはいけないと思いますよ。
日本共産党や連中のお仲間はやたらと「戦前は暗黒時代だった」と描きたがります。日本共産党・民青では小林多喜二のことは教えても小畑達夫さんのことは教えません。なぜなら、日本共産党員であった小畑達夫さんを殺したのは宮本顕治であり、宮本顕治は日本共産党の最高幹部だったからです。ちなみに、現在、民主的な党内選挙で選ばれていない志位独裁委員長は、宮本顕治の押しで昇進した人物です。
スバス・チャンドラ・ボース(中左) ラス・ビハリ・ボースと俊子
少しインドの話をしましょう。戦前の日本が、対英独立運動にかかわっていたスバス・チャンドラ・ボースとラス・ビハリ・ボースを援助していたことはご存知でしょうか? 「中村屋のカレー」で有名なのはラス・ビハリ・ボース。ですから当時、「日本には2人のボース」がいたことになります。2人はおまけにインドの独立運動を指導している重要人物でした。インドの人々が日本への親近感を持つのは「日本がインドの独立運動を助けてくれた」という事実があるからでしょう。もしかしたら、インド人のパール判事の心の中にも日本への感謝の思いがあったかもしれません。
日本の軍事マニアの中でも評判の悪い「インパール作戦」。指揮官牟田口中将の人物評はここでは扱いませんが、インドでは「インパール作戦」ではなく「インパール戦争」と位置づけています。つまり、インドにおける「インパール戦争」は対英独立戦争であり、日本はインドの独立を支援した友軍という扱いです。日本のNHKが、高木俊朗の小説『抗命』に基づき「牟田口は無能」とやって、牟田口中将の遺族の怒りを買いましたが、インド側が牟田口中将の悪口を言ったという話は聞いたことがありません。
スバス・チャンドラ・ボースの周囲を固める兵士の一人は日本兵だという。
最後に、インド国民党軍事務局長、S・S・ヤダバ大尉は1998年1月20日に靖国神社を参拝して、こう記帳しました。
われわれインド国民軍将兵は、インドを解放するためにともに戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対して、もっとも深甚なる敬意を表します。インド国民は大義のために生命をささげた勇敢な日本将兵に対する恩義を、末代にいたるまで決して忘れません。われわれはこの勇士たちの霊を慰め、ご冥福をお祈り申し上げます。http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20140128/frn1401280736000-n1.htm
こういう事実を日本の学校では教えてくれません。
欧米列強の植民地支配体制を打ち破ったのは日本人という事実!
なでしこりんです。今日の東京は春を思わせる陽気なんです。私は今朝は靖国神社に参拝して来ました。今日はお着物を召した方が多かったですよ。やはり日本人は着物ですね。昨年は、韓国人による爆弾テロ未遂事件がありましたが、参拝客には影響はなさそう。若い団体さんもたくさんおいでになっておられました。
私は本殿に参拝した後は必ず、遊就館の左側にある「パール判事の顕彰碑」にもお参りすることにしています。みなさまはインド人のパール判事のことはご存知ですか?
ラダ・ビノード・パール(Radhabinod Pal 1886年1月27日 ~1967年1月10日) 極東国際軍事裁判(東京裁判 1946年~1948年)において連合国が派遣した判事の一人で、判事全員一致の有罪判決を目指す動きに反対し、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)で知られる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB
1946年(昭和21年)の時点ではインド独立していませんから、まだイギリスの殖民地でした。そういう状況の中で、宗主国イギリスのイエスマンになることなく、「事後法をもって裁くことは国際法に反する」と主張されたのは立派としか言いようがありません。もし私がパール判事の立場なら、圧倒的多数派の連合国に迎合していたでしょう。私たち日本人は、パール判事の勇気を忘れてはいけません。
極東国際軍事裁判については、自民党の中から「再検証すべき」という声が上がっているのは歓迎すべきことです。考えてみれば、事例が起こってから法律を作るということを認めれば、全ての人を犯罪者にすることができます。「法で裁く」ということは、事例が起こった時点にすでにある「現行の法律で裁くべき」というのが当然のはずなんですが、極東国際軍事裁判(東京裁判)はそういう原則を逸脱しているんですね。要は「報復ありき」が真っ先にあるから、そのための「平和に対する罪」と「人道に対する罪」を捏造したんです。日本人はこの問題を忘れてはいけないと思いますよ。
日本共産党や連中のお仲間はやたらと「戦前は暗黒時代だった」と描きたがります。日本共産党・民青では小林多喜二のことは教えても小畑達夫さんのことは教えません。なぜなら、日本共産党員であった小畑達夫さんを殺したのは宮本顕治であり、宮本顕治は日本共産党の最高幹部だったからです。ちなみに、現在、民主的な党内選挙で選ばれていない志位独裁委員長は、宮本顕治の押しで昇進した人物です。
スバス・チャンドラ・ボース(中左) ラス・ビハリ・ボースと俊子
少しインドの話をしましょう。戦前の日本が、対英独立運動にかかわっていたスバス・チャンドラ・ボースとラス・ビハリ・ボースを援助していたことはご存知でしょうか? 「中村屋のカレー」で有名なのはラス・ビハリ・ボース。ですから当時、「日本には2人のボース」がいたことになります。2人はおまけにインドの独立運動を指導している重要人物でした。インドの人々が日本への親近感を持つのは「日本がインドの独立運動を助けてくれた」という事実があるからでしょう。もしかしたら、インド人のパール判事の心の中にも日本への感謝の思いがあったかもしれません。
日本の軍事マニアの中でも評判の悪い「インパール作戦」。指揮官牟田口中将の人物評はここでは扱いませんが、インドでは「インパール作戦」ではなく「インパール戦争」と位置づけています。つまり、インドにおける「インパール戦争」は対英独立戦争であり、日本はインドの独立を支援した友軍という扱いです。日本のNHKが、高木俊朗の小説『抗命』に基づき「牟田口は無能」とやって、牟田口中将の遺族の怒りを買いましたが、インド側が牟田口中将の悪口を言ったという話は聞いたことがありません。
スバス・チャンドラ・ボースの周囲を固める兵士の一人は日本兵だという。
最後に、インド国民党軍事務局長、S・S・ヤダバ大尉は1998年1月20日に靖国神社を参拝して、こう記帳しました。
われわれインド国民軍将兵は、インドを解放するためにともに戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対して、もっとも深甚なる敬意を表します。インド国民は大義のために生命をささげた勇敢な日本将兵に対する恩義を、末代にいたるまで決して忘れません。われわれはこの勇士たちの霊を慰め、ご冥福をお祈り申し上げます。http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20140128/frn1401280736000-n1.htm
こういう事実を日本の学校では教えてくれません。